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聖天堂について

国宝「歓喜院(かんぎいん)聖天堂(しょうでんどう)

 平成24年5月18日に国の文化審議会から文部科学大臣に対して、妻沼聖天山の本殿「歓喜院聖天堂」は国宝に指定するにふさわしいとの答申が出されました。同年7月9日の官報にて告示があり、同日付で正式に国宝として指定されました。
 歓喜院聖天堂は、享保20年(1735)から宝暦10年(1760)に掛けて、(はやし)兵庫(ひょうご)正清(まさきよ)及び正信(まさのぶ)らによって建立されました。これまで知られていた彫刻技術の高さに加え、修理の過程で明らかになった漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されました。日光東照宮の創建から百年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎ込まれた聖天堂は、江戸後期装飾建築の到達点です。

歓喜院聖天堂の360°パノラマ映像(株式会社小西美術工藝社のホームページ)
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聖天堂の建築

 聖天堂の大きな特徴は、足元から軒先に至る建物全体を彫刻で飾り、さらに極彩色・漆塗・金箔押し・飾金物を施す壮麗な意匠にある。その意匠には、大工棟梁の統率のもと、彫刻師・絵師・塗師達の高い技量が発揮されている。また、造営資金は聖天宮を信仰する庶民の寄付により賄われた。装飾には庶民の期待と憧憬が反映されたとみられ、結果として建築と装飾が訴和した、庶民信仰の象徴ともいえる建物が実現している。

権現造


本殿北側面図

 建物は正面から拝殿・中殿・奥殿の三棟の建物が順につながる。拝殿は桁行五間、梁間三間、入母屋造、中段は街行三間、梁間一間、両下(まや)造(屋根を両側にふきおろしたもの)、奥殿が桁行三間、梁間三間、入母屋造である。上から見ると棟の形が工の字型をした、権現造りと呼ばれる建築様式をもつ(注1)。桃山時代以降に神社建築に広く用いられた形式の一つで、代表的なものに日光の東照宮があり、聖天堂が位置する北関東周辺に多く現存する杜殿形式である。また、現在は仏堂の位置付けであるが、明治維新の神仏分離令発布以前は「聖天宮」と称され、神仏習合の時代にあって神社の形態をとっていた。歓書院は聖天宮を守る別当寺(神社を管理する寺)として設けられたものである。したがって聖天堂の建物は、神社の名称にならって、奥殿は「御本社」・中殿は「御幣殿」、拝殿はそのまま「拝殿」と呼ばれていた。ただし、権現造りはもともと宮寺造りとも呼ばれ、神仏習合にあった形ととらえられていた。

(注1)「本来権現造とは仏堂風の社殿を指した言葉で、堂社造とも呼ばれていた。(中略)権現の名は神仏混淆的で、仏堂風の組物や絵様彫刻を施し、素木ではなしに朱塗りとした社投を権現造と呼んだのである。しかし、いまは東照大権現を祀った東照宮と同じ構成の社殿をすべて権現造と呼んでいる」 『不滅の建築12 東照宮陽明門』工藤圭章 毎日新聞社 1989

屋根の形式

 屋根は江戸時代より瓦棒銅板葺きで、拝殿は正面に軒唐破風、その上に千鳥破風を飾る。奥段も入母屋造で、正面を除く三面に軒唐破風を付け、背面はさらに千鳥破風を飾る。中殿の屋根は奥殿・拝殿それぞれに接続し、両側に葺き降ろす。奥殿、拝殿の異なる高さの軒先を、中殿軒廻りの端部をねじ上げて連続させており、巧妙な納めを見せる。日光東照宮は、本殿の屋根の下に石の間の屋根が入り込り込むのに対して、若干時代の降る日光の大猷院霊廟は、相の間と本殿裳階を連続させており、聖天堂はこれと似ている。茅負から上軒付にいたる五重の軒付が見せる造形は、曲線が重なり合あって非常に装飾的である。瓦棒銅板葺は、こけら葺の土居葺にあらためて木下地を造り、これに銅板を葺いている。当初の銅板は0.4mm前後の厚さの手打ち製で、現行の工業製品と変わらない薄さに延ばしており、屋根に薄銅板を用いた早期の例とみられる。

空間の構成と装飾

 各建物は、拝殿が参拝客の拝所、中殿が拝殿・奥殿の間に設けられた供進や祈祷の場所、奥殿が御本尊の大聖歓喜天(だいじょうかんぎてん)を祀る場所となっている。


奥殿背面の装飾

 内法には大羽目彫刻、縁下には腰羽目彫刻をはめる。いずれも岩絵具による彩色仕上げである。柱や土台などの軸部材、縁廻り部材には地紋彫を施す。鮮やかな彩色と艶やかな黒や赤などの漆塗、豪華な金箔仕上げが随所に施される。
 大羽目彫刻の題材は七福神で、背面は中央間が布袋と恵比寿、大黒が囲碁に興じている場面である。両脇間は、神々の持物で唐子が遊んでいる姿であり、三間が一つの題材を構成する。背景である雲や桐の木、岩組や流水が一連で描かれる。

装飾の特徴

 聖天堂の建築を飾る彫刻・漆塗・彩色の装飾は建物の大きな特徴であり、これらは日光東照宮の建築群にみられるものとほぼ共通する。したがって、当時のあらゆる装飾技法が駆使されているといえる。しかし日光では、本殿を始めとする各建物の格式に応じて、装飾技法を使い分けているため、各種の装飾が分散する。一方聖天堂の奥殿には、あらゆる装飾技法が集められている。
 さらに大羽目彫刻や腰羽目彫刻等の技法や表現が、時代が降ることにより一段と発達しており、結果として建物単体としての装飾性が著しく高まったものとなった。また、建物は本殿であるが、彫刻の密度や唐破風を各面に配する意匠は、陽明門とよく似たものとなっている。奥殿は、各種の技法を集約し、新たに再構成することで、結果として極限まで装飾の密度が高まり、類を見ないほどの豪華で意匠牲の高い装飾建築が完成するに至った。
 奥殿・中段・拝段はそれぞれ色分けを行い、さらに装飾の種類・数を区別することで、建物の格式を明確にするとともに、参拝者の視点に沿って、手前から奥に向かって連続的に荘厳性を高めて、観るものを徐々に高揚させ、興味を惹きつける狙いがあったものと考えられる。
 日光東照宮(寛永13年[1636])や大猷院霊廟(承応2年[1653])が完成してから約百年を経て、その建築装飾の技法が民間へ伝播し、さらに咀嚼され成熟・発展した様子がわかる貴重な例といえる。

彫刻の特徴

 彫刻は上州花輪村(現在の群馬県黒保根村)の石原吟八郎が携わったことが伝わる。他には、後に江戸彫の祖となる後藤茂右衛門正網や、小沢五右衛門の参画が確認できる。小沢の系統は、後に諏訪の立川流の祖となる立川和四郎を輩出している。いずれも御用彫物師高松又八の門弟達の仕事である。
 技法については、大羽目や腰羽目彫刻にみられるように、人物は上から見ると頭を不自然に歪ませているが、正面からみると自然な表情に見える、いわゆる「見立て」が上手な彫り方である。そして、その平面的な顔に比較的薄い彫りを入れて、生き生きとした表情を創り出しているのである。分厚い現物を貼り付けたような単なる写実的な彫刻とは異なり、くどさがない。龍や獅子の丸彫は日や鼻、顎のバランスが良く、細かく彫り過ぎずに体幹の動きをゆったり大きく、力強く表現しており、建物に負けない存在感がある。一方、虹梁や破風板などの建築部材には、唐草文様の浮彫、陰影の様々な技法が随所にみられる。

聖天堂のみどころいろいろ

よみがえる彩色歓喜院聖天堂