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斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)

平安時代末期の武士 天永2年(1111)〜寿永2年(1183)

日本画 銅像(歓喜院境内)

最期まで平家への忠信を貫いた「智」の武将

 平安時代末期に活躍した武士。久寿2年(1155)、源義平が叔父源義賢を討った大蔵館(嵐山町)の戦いでは、義賢の子で2歳の駒王(後の木曽義仲)を保護し、木曽に送り届けたといいます。保元の乱、平治の乱では、源義朝につき活躍をしました。その後は、平家との結びつきを強くし、平家領である長井荘の荘官となったようです。治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされます。
源平の合戦(治承・寿永の乱)では、一貫して平家方につきます。治承4年(1180)の富士川の戦いでは、「東国の案内者」として、東国武士について進言したといいます。寿永2年(1183)、篠原の戦いで、味方が落ちていく中ただ一騎踏みとどまり、幼い頃助けた木曽義仲軍に討たれます。黒髪に染めた実盛を見た義仲は、さめざめと泣いたと伝えられます。
実盛の子、宗貞・宗光も、平家への忠誠を貫きました。実盛の言により、平清盛の嫡孫平維盛に妻子の警護を命じられ、子の平六代に最後まで仕えたとされています。

関連史跡

   斎藤塚(弥藤吾889)

文治五年(11589)実盛の子斎藤五・六が父の遺品を埋納したとも、孫の弥藤吾実幹あるいは外甥国平居住の跡とも伝えられる。
塚上には、永仁5年(1297)銘の板碑(銘文「右志者為□」)が建てられており、永井斎藤氏の後裔の墳墓と推測されている。
   実盛塚(西野444)

福川に沿って開かれた長井庄の中心的位置で、、福川の舟運や、旧鎌倉街道がこの付近を通っていたと推測されれる交通要衝に立地している。
古くから「この辺り堀内という所は長井庄の首邑で実盛の邸跡なり」との伝承が残されている。
大正15年埼玉県指定史跡「斎藤実盛館趾実盛塚」と指定されるが、昭和38年解除されている。昭和52年熊谷市指定文化財史跡に指定されている。
塚上の板碑は、正嘉元年(1257)銘で、銘文は「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 右志者為慈父 幽儀成仏也 孝子 敬白」と刻まれ、碑裏には「長井馬入道殿 正嘉元年丁巳十一月十二日卒 直年七十一也」と追刻されている。
   長昌寺の椎の木(八ツ口869)

実盛が西野に館を構えた際、長昌寺境内の薬師堂を鬼門よけ祈願所とし、その印に境内に3本の椎の木を植えたうちの1本とされている。
樹齢800年以上、樹高9.4m、幹周4.75mで、昭和34年熊谷市指定記念物天然記念物に指定されている。
  実盛館(西野)

実盛塚から東に70m程の地点に、約90m四方の方形の区割りが確認されており、館跡(熊谷市遺跡No,61-036実盛館)と推測されています。
新編武蔵風土記稿には「この辺り堀内という所は実盛が邸跡なりと云い伝へり」と記されています。
この館跡が、実盛の館跡であるという資料は伝わっていませんが、伝承や地名から、その可能性はあると推測できます。
写真は、現在の「実盛塚」と、国土地理院が1963年に撮影した航空写真で、方形の区画を確認することができます。



めぬま郷土かるた

※画像をクリックすると「めぬま郷土かるた」の詳細ページに移動します。 昭和20年代絵葉書
「日本百傑之内 斎藤実盛」

実盛唱歌

尋常小学校唱歌 斎藤実盛     作者不詳 大正2年
1 年は老ゆとも、しかすがに
弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ 若殿原と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで
残しし君の 雄雄しさよ
2 錦かざりて 帰るとの
昔の例(ためし) ひき出でて
望の如く乞ひ得つる 赤地錦の直垂(ひたたれ)を
故郷のいくさに 輝かしし
君が心の やさしさよ

年表

和暦 西暦 出来事 出典
天永2年 1111年 斎藤別当実盛、越前国河合庄の吉原斎藤家に生まれるという。幼名助房。 「長井系図」
天治元年 1124年 実盛、武蔵国長井庄の斎藤実直の養子となり、名を実盛とあらためたという。 「長井系図」
久安年間 1145年〜
1151年
妻沼(大我井)経塚が築かれる(現妻沼小学校敷地内)。 「妻沼経塚出土経筒銘」
久寿2年 1155年 大蔵館の変が起こる。実盛は義賢の遺児・駒王丸(後の木曾義仲)を信濃国の中原兼遠に預ける。 『源平盛衰記』
保元元年 1156年 保元の乱が起こる。実盛は平清盛・源義朝方として参戦する。 『保元・平治物語』
平治元年 1159年 平治の乱が起こる。実盛は源義朝方として奮戦するが、敗れて、本領へ帰る。 『保元・平治物語』
治承3年 1179年 実盛、武蔵国長井庄に大聖歓喜天を奉り、聖天宮を建立したという。 「略縁起」
治承4年 1180年 8月、源頼朝が伊豆国で平家打倒の兵を挙げる。 『吾妻鏡』『平家物語』
10月、富士川の戦いで源氏方に敗れる。実盛は、「東国の案内者」として、平家軍に従ったという。 『平家物語』
寿永2年 1183年 春、木曾義仲が挙兵する。 『平家物語』
5月、倶梨伽羅峠の戦いで、平家方は義仲方に大敗を喫する。 『平家物語』
6月、実盛、篠原の戦いで木曾義仲方の手塚太郎光盛に討ち取られる。 『平家物語』
7月、平家都落ち。実盛の子の斎藤宗貞・宗光、平維盛に妻子を守護するよう命じられる。 『平家物語』
文治元年 1185年 12月、斎藤宗貞・宗光、連行される平維盛の子六代に従う。六代が許された後も同行する。 『平家物語』
建久4年 1193年 源頼朝が聖天宮を訪れたときに実盛の子・阿請房良応僧都が別当寺の建立を願い出て了承され、関東八ヵ国の歓進を行ったという。 「略縁起」
建久8年 1197年 良応僧都、聖天宮を修復し、別当寺として歓喜院を創設したという。実盛の外甥宮道国平、子孫実家・実幹、歓喜尊天の御正躰を鋳出した錫杖を奉納する。 「略縁起」「錫杖銘文」

エピソード

〈機転をきかせて、源義朝一行を逃す〉

 平治の乱(1159)において、戦いに敗れた源義朝は、小勢となって逃げていましたが、比叡山の僧兵150人程が待ち構えていました。一方には崖、もう一方には水かさの増した川、後ろからはせまりくる敵兵と絶体絶命の状況となります。ここで実盛は、義朝軍の最前に出て、甲をぬいで「ここにいるものは、取るに足りない者だけで、命が助かりたいばかり。武具を差し出すので命はたすけてほしい」と申入れ、僧兵たちも受け入れます。実盛は、手に持っていた甲を僧兵たちに放り投げると、その甲を取ろうとしてひしめきあいます。実盛は、すかさずこの甲を奪い返して、馬にのり、太刀を抜いて、「日本一の剛の武士、長井斎藤別当実盛とは我のこと、勇気があるものはかかってこい。」と言い放ち、さっと通り抜けました。他の義朝一行も、僧兵たちの混乱の中、全員通り抜けることができました。若き実盛の智者ぶりを語る逸話です。

〈実盛の最期〉

 篠原の戦いにおいて、平家軍が逃げ落ちていく中、「錦の直垂(ひたたれ)」を着た実盛は、ただ一騎踏みとどまりました。この「錦の直垂」は、大将用の衣装でしたが、大将の平宗盛に「実盛は、今度の戦で討死をいたします。故郷へは錦を着て帰れとのことわざがございます。今度の戦は生まれ故郷の越前に近いので、ぜひ錦の直垂の着用をお許しください」と言って、特別に許されたものでした。
 木曽義仲軍の手塚光盛は、実盛に戦いを挑みます。実盛は、戦疲れもあり、老武者でもあったのでついに討たれます。光盛が首を持って行くと、大将の木曽義仲は、首が実盛であると気づきますが、髪や髭が黒であることに不審を持ちます。そこで、実盛と友人である樋口次郎を呼ぶと、「これは、斎藤別当です。斎藤別当は、つねづね、『60を過ぎて戦に向かうことがあれば、老武者だと人にばかにされるのも口惜しいので、髪や髭を染めて若々しくしようと思う。』と語っておりました。ほんとうに染めていたのですな。」と泣きながら語ります。実際に、首を洗うと白髪になりました。これを見た義仲は、「実盛は、命を助けてくれた恩人である。」といってさめざめと泣いたということです。

文献

書名 著者名 出版社 出版年
平家物語 日本古典文学大系他


斎藤別当実盛の衣服 山名邦和
1969.07.
斎藤別当実盛伝 : 源平の相剋に生きた悲運の武者 奈良原春作/著 さきたま出版会 1982.05.
竹本義太夫浄瑠璃正本集 古浄瑠璃正本集刊行会/編 大学堂書店 1995.02.
絵物語 斎藤実盛 文 柳田敏司 絵 あおむら純 さきたま出版会 1996.04.
絵本斎藤別当実盛一代記 福島 茂徳/制作 福島茂徳 〔2002.12〕
斎藤別当実盛の選択--老武者の「恥辱」と「武勇」 鈴木 彰
2006.
斎藤別当実盛 金森 孝之/編集 金森孝之 2006.10.
『熊谷市郷土文化会誌第64号』
斉藤別当実盛伝115〜119p
鶴田 幸子/著 熊谷市郷土文化会 2008.11.
利仁流藤原氏と武蔵国 『歴史評論』727号 落合義明
2010.
斎藤氏と聖天堂 熊谷市立熊谷図書館/刊行
2013.03.
『埼玉県謎解き散歩2』
建造物として県内初の国宝となった妻沼の聖天堂
白髪を染めて出陣した斎藤実盛
金井塚 良一/編著,大村 進/編著 中経出版 2013.07.

関連情報

斎藤別当実盛関連の遺跡探訪遊歩道「めぬま歴史の道」のパンフレットはこちら(PDF:1.39MB)からダウンロードできます。