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野口雪江(のぐちせっこう)

「寛政の三名筆」の一人 1732〜1799年


享保17年12月7日熊谷(母方の下奈良の栗原家)に生まれ、名は秀航。父は大善院七世秀猷、母は奈良村の栗原氏。若くして金峰山に入り修験道を修行し、護法を修め、鎌倉町の熊谷総鎮守愛宕神社の祠官をつとめ、大善院八世を名乗りました。
若いころより学問にはげみ、17歳で肥塚の東有隣から経史を学び、18歳の頃江戸に出て、当時名声のあった書家の関思恭に入門し、書道を研鑽しました。
性質謙譲、博識で書道に秀で、寛政九年、弟子の勧めにより東京浅草の浅草寺に「仏身円満無背相」「十方来人皆対面」なる般若讃の中の語句を書いた両聯を奉納し、世の書家から「寛政の三名筆」としてたたえられました。現在も浅草寺外陣に掲げられています。
また、俳諧・書道に後進の育成に当たり、宿役人であった竹井新右衛門、石川清左衛門、石川藤四郎らも雪江の教えを受けました。
そして、江戸後期の熊谷宿の有識者として、俳諧の師建部涼袋や儒医の三浦無窮をはじめ、多くの文人墨客たちと交わり、幅広い文化活動を推進しました。
当時歌われていた劇歌に「横町にすぎたるものが三つある、雪江、石橋、桝屋藤七」がある。
寛政11年7月9日に、68歳で逝去しています。
 交友のあった三浦無窮が、墓碑の三面に撰文を刻んでおり、最後に雪江を「文質具備智徳両修有花有実功業不朽」と讃えている。

熊谷市指定有形民俗文化財 典籍「野口雪江墨跡」はこちら

野口雪江書両聯(りょうれん) 雪江書高麗神社第一ノ鳥居扁額「大宮大明神」
「仏身円満無背相」 「十方来人皆対面」 右:浅草・浅草寺 左:熊谷寺
浅草寺の両聯は、寛政9年9月18日に、江戸小舟町佐々木与兵衛の斡旋で、熊谷宿の竹井新右衛門、石川清左衛門、石川藤四郎が世話人となり、雪江の俳友・門人の須賀市左衛門(笑牛)、長島藤右衛門、村岡与一右衛門、板倉長兵衛、大森嘉兵衛、代忠八が発願して奉納したものです。
野口雪江墓(大原墓地)

年表

和暦 西暦 出来事
享保17年 1732年 12月7日 大善院七世秀融の子として熊谷(下奈良)で生まれる。
寛政2年頃 1749年 熊谷(肥塚)の東有隣から経史を学ぶ。
寛延3年頃 1750年 江戸の書家関思恭に入門し、書道の研鑽を積む。
寛政9年 1797年 9月18日 浅草寺に「佛身圓満無背相」「十方來人皆對面」の両聯を奉納。寛政の三名筆と称される。
寛政11年 1799年 7月9日 68歳で死去。

文献

書名 著者名 出版社 出版年
『熊谷郷土会誌』 第2号「碑石文」 熊谷郷土会、熊谷郷土会 編 熊谷郷土会 1937
『熊谷人物事典』「野口雪江」 日下部朝一郎 1982.
『熊谷市郷土文化会誌』50周年記念誌
「名士・功労者の墓」
角田 茂一 熊谷市郷土文化会 1986.
『野口雪江』展 : その墨蹟と人柄 熊谷市立図書館 1990
『市民教養セミナー平成6年度』
熊谷の良寛 書家 野口雪江
新井 晴次/著 熊谷市郷土文化会 1994.
〔野口雪江の書〕 熊谷市立図書館 〔2000.04〕
『新市誕生・指定文化財』
「熊谷の書と発見=雪江・幡随意・野雁・晴湖の人と書=」
新井 晴次 熊谷市立熊谷図書館 2009.03.30
『野口家のルーツ考』   野口 宏    2010.12