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東武熊谷線の誕生

東武熊谷線は、戦時中軍の要請により、群馬県太田・小泉地区にある中島飛行機工場の工員輸送と資材搬入の便をはかる目的で建設されました。線路区間は、群馬県邑楽郡大川村から熊谷駅までの14.2kmで、当初の建設予算は550万円でした。
第1期工事:東武鉄道は、昭和17年2月4日免許申請を行い、6月8日認可、8月施工認可、11月20日工事施工認可を受け、第1期工事として熊谷―妻沼間10.1kmの工事が鹿島組により着手され、昼夜突貫工事が行われ、昭和18年11月に工事終了し、12月5日から旅客輸送に限って営業が開始されました。
高崎線の横断橋・道路にかける立体交差化築堤高架工事や、用水路を横断する橋梁・溝橋等困難な箇所が多く、踏切道は52箇所を数えました。駅は、熊谷・上熊谷駅では秩父線の駅を利用し、大幡・妻沼駅は昭和18年9月に鹿島組が施工し、営業開始の前日となる同年12月4日に竣工監査が終了しています。
第2期工事:東武鉄道は、群馬県邑楽郡大川村から妻沼駅までの区間工事として、昭和18年6月1日、利根川橋梁工事施工ならびに線路一部変更認可申請書を提出し、昭和19年3月8日付けで、昭和19年4月7日までに工事着手し、昭和20年9月7日までに竣工すべしとの運輸通信大臣の認可を得ました。
工事は、用地買収費およびその他の工事費6,533,000円の予算で、第1期工事に引き続き鹿島組が施工しました。
昭和20年8月15日に終戦を迎え、軍需目的で建設されている本線にとってこの事態は工事の存続に大変化をもたらしました。利根川橋梁の橋脚工事の最中であり、利根川治水上直ちに中止することができず、工事中の橋脚の基礎井筒工と、橋台、橋脚を昭和22年7月に完成させ、東武熊谷線の工事は中止されました。


昭和27年地図(東武熊谷線)