信仰
高城神社
高城神社は、市内の宮町の星川と成田用水の2本の川に挟まれた場所に位置します。別称明神様、祭神は高皇産霊命で、『延喜式神名帳』に記載され、古くは熊谷次郎直実の氏神とされています。
明治維新前は、本地仏として愛染明王を祀っていたため広く紺屋業者の信仰を集め、遠く京都・江戸の紺屋職人講中による奉納も多かったようです。
「常夜灯」熊谷市指定有形民俗文化財
当時の信仰を物語るものとして、境内の青銅製の常夜灯が残されています。
天保12年(1841)に寄進されたもので、円筒形の台座の周囲には寄進に関係した人の名が刻まれています。寄進者の名前は、熊谷宿と近郊の農村部の他、遠くは、桐生町、足利町、江戸、川崎、伊勢白子などの地名があり、特に江戸の職人(紺屋、形屋、張屋)はかなりの数に上がっています。
「天水鉢」
大正5年に高城神社は県社に昇格しており、それを祝して熊谷染色業組合は社前に鋳物の天水鉢を奉納しています。この天水鉢は、鉄製であったため戦時供出されてしまい現存していませんが、近年、コンクリート製のものが代わりにつくられ、社前に置かれています。基礎の礎石は、古いものがそのまま使われており、側面には、大正5年奉納時の組合員の名が刻まれています。
愛染堂
下川上に所在する愛染堂の本尊は愛染明王の坐像であり、開帳は50年に一度となっています。この愛染堂は、古くは医王院宝乗院が別当寺となっていましたが、明治38年に本堂が倒壊し現存していません。現在は、上中条の実相院が管理しています。
愛染明王は本来、染色とは関係のない仏であり、愛欲や貪欲といった心の欲望をつかさどる仏とされています。人間の愛欲をつかさどるということから、愛染明王は水商売の人たちの信仰を集めていましたが、それとともに、染色業者信仰を集めるに至りました。これは、「愛染」が「藍染」に通じるというゴロ合わせによるものと、愛染明王の台座になっている宝瓶を藍甕にみたてたというものです。
「愛染明王」熊谷市指定有形民俗文化財
本像は、宝乗院愛染堂の本尊として伝来したもので、大同元年(806)、日本一木三体の一体として造立されたとの伝説が語り継がれています。像高は1.5mを測り、大きさでは、全国的に見ても類稀な例です。
造立の年代は、彫刻の様式からすると伝承とは異なりますが、江戸時代前期に秀逸な仏師の手によりつくられたものと推測されます。
本像は、三目六臂の仏相であり、表面の赤色は実在の日光の輝きを示しています。三目の怒相は、三界の邪気を払う形相を示し、六臂の中において、左上手の拳は、願望を成就することを、右上手に蓮華を持つのは、穢れを払い円満をもたらすことを意味しています。右中手には五鈷杵、左中手には金剛鈴を持っており、衆生からの救済を願う形仏相です。左の下手には、金剛弓、右下手には金剛箭を持ち、煩悩を払い、悲観厭世の妄心を射抜くことを示しています。毛髪の逆立相は、魔縁降伏の相を示し、頂の獅子冠は、七曜の吉凶逆転を予期させるものです。
本像は、近世仏像彫刻の優れた作例の一つとしての美術的価値をもつとともに、染色業者による愛染信仰の本尊としての歴史的、民俗的価値を有しています。
「愛染講」
愛染明王を信仰する人々が寄り集まって結ばれた組織。染色業者が大半を占め、大正時代までは広く関東一円に講中が存在し、代参を送っていたが、染物業の衰退と共に次第に縮小し、現在では熊谷市から羽生市にかけての狭い範囲の分布となっています。
「奉納物」
藍製講中敷石奉納碑
堂内や境内には、各地の愛染講中から奉納・寄進された絵馬、灯篭、鉢、燭台、水屋、石碑などが残されています。奉納された時代は、江戸時代から昭和までと幅広く、奉納者は上州から江戸まで広範囲に及んでいます。
「愛染絵馬」熊谷市指定有形民俗文化財
染織関係の絵馬には、天保年間の紺屋の絵馬など4枚あり、熊谷市有形民俗文化財に指定されています。その中の1枚には、藍場に甕が20余り並び、7人の男女がおのおの違った作業に励んでおり、糸染めの手順に従い、最初の染めから、絞り、染め、絞りといった各人の仕事や服装を見ることができます。
他の絵馬には、浸染めする人、庭先で商談するする人、意匠に工夫をこらす人、屋外で引き染めをする人といった多様な職人の構図が描かれており、その多様さから、愛染明王に対する信仰の一面をうかがうことができます。
「奉納額」
この奉納額は、御堂に掲げられていたもので、「明治21年3月8日 共進 成業 唯頼 冥護 西武藍商等謹白 筆尾高藍香」と記されています。「共に進みて業を成し、唯(ただ)冥護に頼る」とよめ、藍染業の発展について仏の加護を祈念して奉納されたものと思われます。
尾高藍香は、天保元年(1830)下手計村(しもてばかむら:現深谷市)に生まれ、通称、新五郎 惇忠と称し、藍香と号しました。青淵(渋沢栄一)とは従兄弟にあたります。「藍香ありてこそ 青淵あり」と後の人々は称え、水戸学に精通し、渋沢栄一の人生に大きな影響を与えた人物です。
富岡製糸場の初代場長で日本の製糸業を興した尾高藍香が、藍染業者の信仰を集めていた下川上の愛染堂を訪れていたことを示す貴重な資料です。