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熊谷染の染色業者


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型治:横田治三郎

初代横田治三郎は、安政3年(1856)、遠江国浜松の染物屋、海野家の次男として生まれました。東京の小紋染色の備前屋に弟子入りし、型付修行に励み、武州幡羅郡三ヶ尻村(現熊谷市)の大沢染物店に招かれ、明治10年同村の農業横田家の婿養子となりました。明治23年には熊谷町に転入し、桜町の一角に居を構え、屋号を「形治」と称し、染色業を開業し、明治23年には宮町内に染色工場を建てています。
当時は片付けを本業とし、染めは紺屋にまかせ、木綿を主としていました。小紋は竹ベラを使用し、中型はゆかたを主とし、そろいの祭用ゆかたを大量に生産していました。
また、子弟の育成に意を用い、数十人の子弟を育てましたが、明治45年、病により56歳で他界しています。
2代目新次郎の頃は、ふとん用の唐草を大量に加工していましたが、大正3年他界し、妻が営業を引き継ぎ、小紋捺染に精を出し、隆盛期を迎えました。
3代目伊三郎は、戦中戦後の困難を切り抜け、4代目透は、宇野千代小紋染めの専属工場として、その製品は高く評価されました。
横田家が熊谷における染色業の草分け的存在であり、多くの子弟の第2世・3世が、現在の主たる熊谷の業者であり、熊谷のみならず、前橋、高崎、本庄、八王子等にその流れを受け継ぐ者が広がっています。

扇屋:高木鶴吉

高木鶴吉は、天保10年滋賀県に生まれ、熊谷に移り住み扇谷を屋号とし染色業を始めました。
明治16年(1883)には、上野―熊谷間の鉄道敷設に際し、駅の敷地及びこれに通じる道路敷を日本鉄道に寄附し、熊谷駅の実現を図りました。
大正5年(1916)に、前年に行われた大正天皇の即位の礼(御大典:ごたいてん)記念の町名募集が行われ、現在の駅前通りより県立熊谷女子高脇の道路までを、高木家の屋号:扇屋にちなんで、末広町と名付けられました。
また、県立熊谷女子高校手前の石橋を要(かなめ)橋と呼称するようになりました。
自営の染色業は隆盛を極め、その規模も熊谷宿一位を誇りましたが、明治22年、50歳で他界しています。

近藤緋染め

初代近藤彦次郎は、明治9年に熊谷で、染色業の近藤緋染め(近藤紅染工場)を始めています。本格的に修業し名を成したのは、2代目栄次郎からとなる。高崎の吉村という紅染屋で修業し、熊谷に戻り、紅染め専業へと経営の転換を図りました。
大正初年、第1次世界大戦が始まり、帰国せざるを得なくなったドイツ人技師は、かねてより染色技術に協力していた近藤紅染めに大量の染料を売り渡しました。この染料により、他所で真似することのできない鮮麗な緋色を染め出すことに成功したことが、近藤緋染めと言われるようになった所以です。
最盛期の生産高は1日千反に及び、柿原商店その他の問屋を通じ、全国へ販売されました。
3代目の信之助の時代(大正〜昭和中期)が、緋染業の隆盛期となり、職人が常時50人程住込みで働いていました。
昭和16年頃より物資の統制が厳しくなり、一般染色業者は営業不振となりますが、近藤紅染工場は国の生産指定工場となり、操業を継続しましたが、昭和20年8月14日の熊谷空襲で倉庫へ直撃弾を受け、工場施設とも全焼してしまいました。
戦後は、4代目義次が継承しましたが、昭和30年に和装を中心とした、縫製業に転換しています。

清水染工場

明治22年、清水奥太郎が松山町より熊谷町鎌倉町に移転し、染色業を開業し、星川の源泉を領して、染色業の基礎を固めました。
2代目平次は、大正2年に熊谷町町会議員に当選し、熊谷染色組合長として業界の発展に尽力しています。
3代目好一は、文化町内に新工場を新設し、清水染工場として、業界のトップを占めています。昭和17年には熊谷市市議会議員に選出されています。
清水家3代にわたる業界の推進指導により、熊谷の染色工業は「熊谷染め」として全国的に有名となり、地場産業としての価値を高めるに至りました。

清水染工場の年賀状
(大正11年1月)

宇野の絞り染

大正中期、江州彦根出身の行商人宇野弥一朗は、江州特産の蚊やランプの行商を為し、熊谷に落ち着きます。その後、絞り染に興味を持ち、染色業を始めます。高木神社前の梅盛座、元紫紺屋をしていた尾張屋で、絞りの道具を譲り受け、卯の木薬局で染料の処理方法を教えてもらい、尚張屋の高橋佐市に染色技術の指導を受け、試行錯誤の末、子供用の兵古帯を染めあげました。
その後、木綿絞りの本場である尾張の知多部有松村に出向き、本格的な絞り染の技法を取得して戻ります。後に、「絞り染の宇野か」「宇野の絞り染か」とうたわれ、熊谷の絞り染は関東における三大専門(小紋の東京、兵古帯の足利、着尺の熊谷)の一つに挙げられるようになりました。

岡村染工場

岡村龍作は、明治30年、新潟県松代町に生まれ、浴衣、手拭染色業の武蔵屋3代目を継ぎます。本社を東京千住に置き、業務拡大のため、昭和27年誘致工場として、水量豊富な成田用水の流れる熊谷市石原に染色工場を建設します。
昭和30年頃の隆盛期には工員150名余りが働き、東京本染浴衣の生産においては、関東地方における最高位を確保していました。
昭和36年5月には、旱魃が続き、成田用水が枯渇したことを受け、岡村染工場では率先して工場内の揚水施設を利用して汲引し、農業用水を提供しています。その後、岡村龍作は、染色業界に貢献したことが認められ、黄綬褒章、勲四等瑞宝章を贈られています。