建部綾足『三野日記』
建部綾足(たけべあやたり:1719-1774)は、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師。別号に、葛鼠・都因・凉袋・吸露庵・寒葉齋・孟喬・毛倫・建長江・建凌岱。俳諧を志し、師は、蕉門の志太野坡(1662-1740)、ついで、伊勢派の彭城百川(1697-1752)、和田希因(1700-1750)、中森梅路(■-1747)。綾足は、江戸中期(宝暦・明和年間)の熊谷俳壇に大きな影響を与えました。笑牛(須賀市左衛門:長栄)、雪江(野口秀航)の師で、明和3年(1766)10月4日に江戸を立ち、10月7日に熊谷を訪れ、笑牛宅に滞在しています。この時の紀行が『三野日記』に記されています。
(前略)
「七日、雨なごりなく晴て、日かげいとけざやかなり。くまがやの堤を行とて、見れば、冬の花どもいとはかなげにさけり。
くまがやの 道のくまびに さく花を 折てぞしぬぶ ひとりし行けば
さて、熊谷なる長栄がりとふに、とどめられてやどる。夜もふけぬれば、川原風のおとづるる方より
鴨ぞ鳴く 霜おくべしと 思ふ夜に
此夜はいもねず。
大路のいとちかきに、旅行人にやあらむ、「あなさむや」などいひすぐ。
行駒の おときこゆなり 夜や明ぬらむ
八日、はゆまのたよりありとききて、けさよみつる歌ども、妹がりへとて人につく。長よし物したまひて、其友なりける中睦が父のかくれすむなるいほりに、いつまでもあれとてすえたまひけり。此庭に山橘のおほく植てはべりければ、
やま人に こひてうえけむ あしびきの 山たちばなを 見るがたのしき
「かねてむつびし雪兄ぬしはいかに」と問ひしに、
「近き比母なくなりたまひてこもり居れり」と聞て、いたみてよみつかはす。
たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり
片歌
寒き夜に 肌したひしも おもふべし
此夜、子ふたつばかりに、石川といふ所より火出て、家七つなむやけぬ。風のはげしかりつるを、
星や飛ぶ 紅葉や散る ともゆる火の」
(中略)
「鯨井といふをとこあり。かれがいはく、「こはそらごとにあらず。此所に石上寺といふ寺の藪原より、竹の、もとすえに頭の髪なむおひ出たるが、しかも四もと五もと侍り。おのれも一もと得つ」と。所の人はかねて見もし聞もしつれば、さもおどろかず。され先ほしくなりつれば、「かれ得させよ。かならずかぐや姫などこそかくれおはさうずるものなれ。そらへとてにげ給はぬやうにつつみもて来よ」といへば、「さらばをしむべきものなれど、色ごのみたちのよばひわたり給はむも、いとうるさかるべし」とて、やがて得させつ。さて見れば、ほそき竹の根より七寸ばかり置て、そぎたる口より、黒髪のつやつやしき五すぢ六すぢぞおひ出たえる、いとあやしき。長栄、「ためしてや見む」と、一すぢぬき出して、火に焼ば、けがらひあるかをりまでも人の頭なるに違はず。「こもあることかは」とて、はじめて友がきどものくしくなむおもへるさまなり。」
(中略)
「たどるたどる村岡なる雨皐、かねてちぎり置しかばとふに、をちつ日、おほやけの事につきて江戸に出て、あらず。そが友可了、むかへてやどらす。圭語・岸艪・其鉤などいふ者来たりて、かたらひなぐさめけるほどに、ま薬などたうべて、次の日もとどまる。熊谷なる中睦来る。
五日、おなじ所の長よし、かたまごしの事などものしきこえて、「目の事はかろがろしき事にもあらじ。いづこへもよらで、ただにかへれよ」などきこゆるを、うべうべしくおもひぬれば、「今朝なんまかむづべし」と云。此家のむかひに御鷹かひの来て宿りたるが、をちこち猟しありきなどするを、ほのかに見て、
我にこせ 鷹のとき目は 罪ふかし
人々おくりす。其夜、桶川てふうまやにやどる。」
(後略)
と記されています。
記された内容は、明和3年(1766)10月7日に熊谷を訪れた涼袋は、長栄(須賀市左衛門:笑牛)宅に宿泊します。夜になると荒川に近い長栄の家には荒川の川原風が吹いて来て、鴨の鳴く声が聞こえます。中山道に近いため、旅行人が「ああ寒い」と言って通り過ぎました。
8日には、野口雪江の母が最近亡くなったと聞き、追悼の短歌「たらちねの ははある身にも 老らくの 来るはかなしと おもふなりけり」と片歌「寒き夜に 肌したひしも おもふべし」を贈りました。この晩には、石川という場所で火事があり、風が強かったため家が7軒焼けたと記しています。
そしてそこに12日程滞在し、鯨井という男が来て石上寺での話をしました。「石上寺の藪から、竹の根元から髪の毛の生えたものが4つ5つ出た。おれも一つ持っていると話した。そこに居た人はすでに知っていたのか驚かなかったが、それを見てみたくなり、それは必ずかぐや姫などが隠れているから、空に逃げないように包んで持ってくるようにと言った。やがてその男が持ってきたものを見ると、細い竹の根から七寸程の所から、つやつやした黒髪が5・6本出ていた。とても怪しい。長栄(笑牛)は、試してみると言って、一本抜いて火で焼くと、間違いなく髪の毛の臭いがした。こんなことがあるとはと、初めて皆、不快な思いをした。」