現在の位置:ホーム > 常設展示室 > 石造物の部屋 > 記念碑

記念碑

新井周吉・河合鋠太郎頌徳碑
綾川武治、井田友平の名も刻まれています

新井周吉・河合鋠太郎頌徳碑(あらいしゅうきち・かわいしんたろうしょうとくひ)

妻沼歓喜院境内に建てられている、新井周吉・河合鋠太郎頌徳碑を紹介します。

新井周吉は、入間郡高麗村に生まれ、17歳の時埼玉県立中等師範学校に入り、卒業後は各地の小学校長となり、その後、教育時論記者となり、各地を訪れ、教育を論議しました。

明治21年には、弥藤吾地内に妻沼他8箇村による幡羅高等小学が設置されると初代校長となりました。学校では、忠孝・謹倹による独特の校訓を定め、洗心室を設けて武士道を鼓舞し、女子部を設置し学科と技芸を教え、同窓会を創立して現在に通じる社会教育の実践を試みました。

著書に『教育小説』明治19年:鳴東館、『不思議弁妾』明治21年:盛春堂などあり。

河合鋠太郎は、文久3年川越市に生まれ、埼玉県立中等師範学校に学び、明治17年に渡米し美術を学びました。帰国後は教育者として、坂戸・幡羅・生越の各小学校を歴任し、明治31年に、新井周吉の推挙により、幡羅高等小学校第2代校長に就任しています。

この碑は、昭和4年3月に、子弟により建てられたもので、撰文は石坂養平、書は舞原譔一です。碑の裏面には、子弟1,035名の名前が刻まれており、その中には、綾川武治井田友平の名も刻まれています。

碑文には「幡羅高等小学校は規模素より大ならざるも、学績の優良なる地方小学校の模範として名声四隣に籍甚す (中略) 両先生の指導誘掖宜しきの致す所、大我井の新緑愈濃く、利根川の水流淙々として碧きが如く、遺徳は永遠に盡きざるべし」と刻まれています。

所在地 妻沼(歓喜院境内、四脚門北)
種別 記念碑
造立年 昭和4年(1929)