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石坂養平(いしざかようへい)(1885-1969)

文芸評論家・哲学者・政治家。埼玉県大里郡中奈良村(現在の熊谷市)に生まれる。幡羅高等小学校、熊谷中学校を経て明治35年(1902)に第二高等学校に進学、明治39年(1906)に東京帝国大学理学部に進学したが中退、明治43年(1910)に同文科大学哲学科に再入学。在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。
大正4年(1915)父の死にともない奈良村に帰郷し、地域の名士として大里郡農会長や同養蚕業組合連合会長などを歴任。埼玉県議会議員、衆議院議員として、政界に進出するほか、実業界でも活動し、埼玉銀行取締役などの要職を務めた。その一方で評論活動を続け、「有島武郎論」を発表して作家の有島武郎との間で論戦を展開。また、熊谷地域で文芸雑誌『曙光』が出版された際には、「ときわ会」を設立し、その後援者になるなど地域青年の文化育成にも取り組んだ。

石坂養平略年譜

和暦 西暦 年齢 出来事
明治18年 1885 11月26日、埼玉県大里郡奈良村大字中奈良24番地(現熊谷市中奈良2055番地)。父金一郎28歳、母その27歳の長男として生まる。父は温斎と称し漢籍に長じ、漢詩を好くした。
明治30年 1896 11歳 埼玉県大里郡妻沼町弥藤吾、観清寺内の幡羅高等小学校を3月卒業して、その4月に熊谷県立熊谷中学校に入学した。
明治35年 1902 17歳 3月、熊谷中学校第3回卒業。仙台第二高等学校第二部(理科)に入学。
明治39年 1906 20歳 4月に第二高等学校卒業。9月に東京帝国大学理科大学に入学したが、中途退学。
明治43年 1910 25歳 9月、東京帝国大学(哲学科)に再入学。
明治44年 1911 26歳 「帝国文学」8月号誌上に石坂准愛楼の仮名にて「ズーデルマン研究」が掲載される。
明治45年
大正元年
1912 27歳 1月号の「帝国文学」誌上に「新自然主義の誕生」同4月号「帝国文学」に鈴木三重吉論を発表。これに依って中央文壇に文芸評論家として認められる。
大正2年 1913 28歳 3月、東京帝国大学文科大学卒業。「帝国文学」の編集に従事し、評論活動をつづける。
大正3年 1914 29歳 「帝国文学」誌上に引続き、芸術的評論をつづける。
12月25日石坂ふみと結婚。
大正4年 1915 30歳 2月2日、祖父(慶蔵)死亡。3月2日、父(金一郎)相次いで死亡。依って帰郷を余儀なくされる。それを契機に処女出版「芸術と哲学との問」を上梓。その後大正11年頃までに「文章世界」「早稲田文学」「新潮」「中央公論」「日本及日本人」などに、評論、随筆等を発表した。
大正6年 1917 32歳 2月24日、長男金衛生まる。
5月、奈良村農会長就任。
6月、「田中王堂論」を発表。文壇に注目される。
大正7年 1918 33歳 「文章世界」論文投書欄の選者となる。
大正8年 1919 34歳 4月、文章世界に「芥川龍之介論」発表。
10月号帝国文学に「有島武郎論」を発表。
大正9年 1920 35歳 2月15日、次男謹之助生まる。
8月、県議補戦に立候補して当選。政治生活の一歩を踏み出す。
大正10年 1921 36歳 10月、武州銀行の監査役就任。
大正11年 1922 37歳 11月、埼玉県会副議長に選任。
大正12年 1923 38歳 8月、奈良村信用販売購買組合長に就任。
大正14年 1925 40歳 9月、大里郡乾繭販売利用組合長となる。
大正15年 1926 41歳 4月、大里郡幡羅村(現深谷市東方)弥勒院に、中島正平翁の頌徳碑選文。
昭和2年 1927 42歳 2月18日、三男昭光生まる。
4月、大里郡農会長に就任。同埼玉県農会長に就任。
5月、妻沼町弥藤吾、観清寺に恩師掛川先生の頌徳碑の選文。
昭和3年 1928 43歳 2月、松本真平の後を継いで、衆議院に第一回当選。
4月、熊谷寺前の図書館に於いて常盤会誕生。「埼玉県名勝史蹟写真帖」に序文を寄す。
5月3日「曙光」誕生、機関誌「曙光」創刊さる。名誉顧問となる。
11月、常盤会の機関誌として「常盤新聞」創刊。以後「ときわ新聞」には毎月欠かすことなく執筆して、地方文化活動に渾身の努力をなす。
昭和4年 1829 44歳 4月3日、幡羅高等小学校時代の恩師、新井周吉、河合銀太郎両先生の頌徳碑を妻沼町聖天山境内に建立。撰文をなす。
昭和5年 1830 45歳 7月、「自叙伝」を上梓。
9月11日、四男進生まれる。
昭和6年 1931 46歳 5月、大里郡、熊谷市神社氏子総代会長に就任。
9月、「文芸中道」を刊行。
昭和7年 1932 47歳 4月、大里郡養蚕業組合連合会長に就任、同月埼玉県少年団長、同大里郡青年団長、同大里郡社会事業協会長に就任。
常盤叢書の一として、随想、評論集「偃仰録」を刊行。
昭和8年 1933 48歳 4月、「境地はひらく」序文。
7月、元熊谷市河原松山公園の、弥栄神社の社標、並びに御遷宮記念碑揮毫。
昭和9年 1934 49歳 2月、熊谷市上奈良の豊布都神社の社号標揮毫。
11月、論文随筆集「文明の高士」刊行。
12月、妻沼町八ツロ「日枝神社」の社号標揮毫。
昭和10年 1935 50歳 3月、埼玉県養蚕連合組合長に就任。同月大里郡別府村に権田麦翁の顕彰碑の撰文。
4月、「刀畔随筆」序文。
10月、幡羅村(現深谷市東方)熊野大神社石鳥居奉納の撰文。
12月、全国養蚕業組合連合会副会長に就任。
昭和11年 1936 51歳 2月、衆議院議員に第二回当選。
3月、深谷市成塚の宝蔵寺境内に、正田先生の頌徳碑の撰文をなす。
4月、熊谷市上奈良、東光寺境内に、富岡先生の頌徳碑の撰文ならびに揮毫。
5月、奈良小学校庭の二宮尊徳翁の題石に「報徳無辺」の揮毫をなす。
11月、妻沼町飯塚の神社合祀記念碑の撰文ならびに書。
昭和12年 1937 52歳 1月、大里治水記念碑を妻沼町聖天山境内に建立するに当り、撰文。
4月、衆議院議員に第三回当選。同月16日、曙光十周年を記念して、「曙光会員」により「石坂先生文章碑」が奈良村(現熊谷市中奈良)の常楽寺に建立除幕。碑文「人生への愛は孤独より生る」を揮毫。
10月、深谷市西大沼の水天宮碑の題字の揮毫をなす。
昭和14年 1939 54歳 2月、勲四等瑞宝章を授与さる。
5月、大里郡農業保険組合長に就任。
6月、埼玉県農業保険連合組合長。
昭和15年 1940 55歳 3月、妻沼町秦小学校庭に荻野太一翁の頌徳碑を建立、その撰文をなす。
5月、熊谷市中奈良常楽寺境内に、紀元二千六百年の歌碑を建立。この年、新聞統制一県一紙により、常盤新聞は130号にて、廃刊する。
昭和16年 1941 56歳 4月、埼玉県玉井農事試験場内に、野村盛久氏の顕彰記念碑建立。その撰文ならびに揮毫をする。
9月、「興亜青年の書」を刊行。
11月、大里郡青年団謝恩碑を、妻沼町聖天山境内に建立。謝恩のため渡辺金造撰ならびにその揮毫に依る。
昭和17年 1942 57歳 4月、衆議院議員に第四回当選。
この年曙光会機関誌「曙光」第26号をもって廃刊。
昭和18年 1943 58歳 2月、「羅村草居襍記」刊行。
7月、衆議院内閣委員被仰付。埼玉銀行取締役に就任。
昭和19年 1944 59歳 3月、埼玉県農業会長に就任。
2月29日、長男金衛、南方作戦において戦死。
昭和21年 1946 61歳 3月、全国農業会副会長に就任。
8月、関東いすゞ自動車且謦役。
12月、曙光会20周年記念「13人の世界」刊行。
昭和24年 1949 64歳 1月、熊谷高等学校校歌作詞、以後熊谷市奈良小、熊谷市奈良中、妻沼町東中、妻沼町西中、熊谷市別府中、熊谷市大幡小、熊谷市大原中、熊谷市東中校歌を作詞。
昭和25年 1950 65歳 2月、熊谷市大麻生川原明戸の飯田先生の碑撰文。
10月、比企郡大岡村、森田熊吉翁頌徳碑の撰文ならびに揮毫。
12月、蛇の目産業且謦役に就任。
昭和26年 1951 66歳 3月、埼玉県文化団体連合会長。
昭和27年 1952 67歳 1月、大里郡秦村(現妻沼町日向)の開田記念碑の揮毫。
7月、埼玉県神社氏子総代連合会長。同月、伊勢神宮奉讃会埼玉県副本部長。
10月、埼玉県文化財保護審議委員。
この年深谷市大沼北武蔵耕地整理組合記念碑の揮毫。
昭和28年 1953 68歳 4月、埼玉県社会教育委員。
4月、大里郡武川村(現川本町瀬山)八幡神社伊勢参宮記念碑の篆額並撰。
昭和29年 1954 69歳 3月、蛇の目ミシン工業滑ト査役。
7月、埼玉県公安委員。
8月、「ときわ新聞」郷土熊谷附近の文化発展のため復刊第1号発行。
11月、埼玉繊維工業且謦役。
大里郡幡羅村(現深谷市東方)伊勢参宮碑の揮毫。
昭和30年 1955 70歳 1月、埼玉県護国神社奉讃会副会長。
7月、埼玉県公安委員長。
この年大里郡幡羅村、熊野大神社基本財産造成記念碑の撰文並に揮毫。
昭和31年 1956 71歳 11月26日、古稀を祝い「ときわ会」が中心となり、寿碑建立除幕、当日会員に「幸福論」を配布。
昭和32年 1957 72歳 妻沼町聖天山境内に、井田友平の頌徳碑建立。その撰文。
昭和34年 1959 74歳 8月、埼群いすゞモーター且謦役に就任。
昭和35年 1960 75歳 5月、全国神社総代会監事。
深谷市原郷、楡山神社境内に、柳瀬禎治頌徳碑の撰文。
昭和36年 1961 76歳 4月、妻沼町善ヶ島に土地改良碑建立撰文。
10月、「石坂養平著作集」第1巻を刊行。
昭和37年 1962 77歳 3月、熊谷市名誉市民に推挙さる。埼玉県護国神社奉讃会長。
11月、石坂養平著作集第2巻刊行。喜寿を祝して「松陰集」刊行。
昭和39年 1964 79歳 3月、石坂養平著作集第3巻刊行。
4月、埼玉織維工業且ミ長。埼玉銀行埼友会連合会長。「山草句集」序文。
昭和40年 1965 80歳 4月、勲二等瑞宝章を授与さる。
昭和41年 1966 81歳 深谷市山口平八邸に文徳碑の題字揮毫。
昭和42年 1967 82歳 6月、石坂養平著作集第4巻刊行さる。
熊谷市玉井、諏訪大神社の社務所新築記念碑の題字揮毫。
昭和43年 1968 83歳 10月、川本村瀬山八幡神社殿社改築記念碑建立。その題額。
昭和44年 1969 3月、東松山市の大岡公民館に、中島基治翁の頌徳碑の撰文をなす。深谷市宿根に、明治百年記念の神社鳥居、石垣建設碑の揮毫。
5月、石坂養平著作集第5巻を刊行。
8月16日午後9時22分逝去83歳8ヶ月。同日、正四位に叙せらる。
8月29日、熊谷市民葬、市立体育館に於いて行なわれる。諡明徳院養真徹宗大居士。菩提寺、熊谷市下奈良、集福寺。

参考文献

  • 石坂養平『石坂養平著作集:第1〜3巻』関東図書1961−1964年
  • 石坂養平『芸術と哲学との間』高踏書房1915年
  • 棚沢慶治『石坂養平のあしあと』ときわ会1978年