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幡羅官衙遺跡について

 幡羅官衙遺跡は、西別府遺跡西側に位置する深谷市の遺跡で、深谷市教育委員会により、平成13年度より35次にわたる発掘調査が行われています。調査の結果、東西500m、南北400m程の範囲に広がる、7世紀後半から11世紀前半まで機能していた、古代幡羅郡家(郡役所)跡であることが確認されています。
遺跡の中央には、路面幅8m程の道路が北東−南西方向に走り、その北西に正倉院、南東に館などの実務的官衙施設が確認されています。

 正倉(注1)と推定される建物跡は、7世紀末頃に掘立柱建の建物として造営が行われ、8世紀末頃に礎石建の建物へと建て替えが行われ、10世紀中頃には廃絶したと考えられます。この建物はほとんどが高床式倉庫跡で、屋(おく)と呼ばれる土間型式の収納施設も確認されています。

 実務的官衙施設には、幾つもの建物群が存在しています。館(たち)(注2)や厨家(くりや)、その他各種の行政実務を行う曹司(注3)であったと考えられます。館と考えられる建物は四面に庇を持つ建物で、掘立柱塀で囲まれています。その北側には、廃棄土坑が掘られており、多量の土器や焼土、炭化物の他、シカ・イノシシ・カモ・タイ・カツオ・サバ・フナ・アユ等の骨、ハマグリ・アカニシ等の貝殻が出土しています。これらの動物遺体は、饗宴に用いられた食材と考えられます。

 道路は、路面幅6〜8mで両側に側溝を持つ大規模なもので、7世紀末には造られていたものと考えられます。北東に向かう先には、西別府祭祀遺跡が位置し、台地崖線下には湧水点があり、河川(水路)の存在も想定されることから、舟運の拠点(川津)へ向かっているのかもしれません。