水野丑松(みずのうしまつ)(1852-1914)
荒川神社(見晴町) | 明治36年造立築堤記念碑裏面(見晴町) |
水戸屋は、水戸藩出身の藩士水野源助が文政年間熊谷に来て成田用水の水番役人を務める傍ら、中山道に茶店を開き、水戸の殿中を改良した五嘉棒なる棒菓子を製造し、参勤交代の大名や旅人に親しまれたと伝えられている。
明治16年(1883)日本鉄道が熊谷まで鉄道を開通すると、熊谷駅前に茶店を出していた清水藤左衛門(1880-1952)、秋山国次郎に、水戸屋五家宝の駅売りを依頼した。しかし駅売りの当初は、旅客に全く顧みられず売れなかったことから、丑松は、背負えるだけの五家宝を持って、列車の窓から乗客たちに無料で配ったと言われている。
明治43年(1910)には五家宝製造の特許権と、水戸屋の前を流れる成田用水に架かる石橋の養庵橋と富士を五家宝の商標(第14467号)として取得し、熊谷銘菓の隆盛を築いた。また、五家宝の形を長方形にし「松風おこし」と称し販売した。
明治14年(1881)石原村村会議員に当選、明治40年(1907)郡会議員となり郡村政にも尽くした。
明治36年(1903)荒川護岸工事を請負い荒川大橋付近の塚を崩した際、冬眠中の蛇のかたまりを発見し二本榎に移したところ、地主から苦情が出たため、丑松所有の土地に埋め、弁天様を祀った。現在の市内見晴町荒川神社で、当時は「水戸屋の弁天様」と呼ばれていた。明治36年(1903)荒川神社境内に建てられた築堤記念碑に「工事担任水野丑松、水野市三郎」と記されている。大正3年(1914)7月4日62歳で没す。
水戸屋五家宝掛紙
参考文献
- 『埼玉県大里郡制誌』1923年 埼玉県大里郡編纂
- 『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
- 『町医者三百年』1979 志村忠夫
- 『埼玉県立民俗文化センター研究紀要』第14号「五家宝の歴史と製造技術」1998 井上かおり