第26話「谷縁」ーやべりー |
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千代・柴 の地名を取り上げた際に、干燥の著るしい水気の少い土地であったと紹介しました。
千代は、畑や山林が占めていたこと、柴はシブイ(地味が悪く稔りが少い)などから、地名の由来を考えました。このように、旧江南町内の一方で、干燥の程度が高い場所がある反面、反対にいつも水気があり、湿地の広がっていた場所もあります。今回は、そのような湿地に関係した地名とその場所にまつわる伝説を紹介しようと思います。
江南台地に広がる千代、柴の平地林は、成沢付近から柴沼の方向へ侵入した谷と、さらに西方へ続く板井地区北部の水田地帯で途切れます。ここは「谷緑」の地名で呼ばれています。かつてはもっと限定した場所を「足谷」とも呼んでいたといいます。谷緑・足谷の場所は、土地の人によると「この当りの田は冷い水の出るところで、いつもジメジメしていて葦の密生した奥深い湿地だった.。水田にしてもズブズブと足が入ってしまうので松丸太などを水田の中に横に埋めて足場にした。」といいます。
実際のところ、この話のように「谷緑」一帯は、地形的にも袋小路状の低地に当り、雨水の流路にも重り、木の根が深く張れず湿地を好むシダやギボシなどが密生していました。周辺で行われた開発に伴い、大規模な貯水池を掘り上げたところ、泥黒色土が厚く堆積していることがわかりました。数メートルに及ぶこの土層の正体は、水中に沈んだ植物の遺骸や流れ込んだ土が堆ったものです。湿地帯はかつての沼がたどった最後の姿であり、開墾されて今の水田に変ったのです。「谷緑」に隣接する「新堀」は、排水路を掘ったものかもしれず、東側に残る 「新田」 の地名もこの開墾に関係しているのでしょう。
伝説では、この湿地が大きな沼であった頃、この沼に面して立派なお寺があり、火事で寺が焼け、釣鐘は沼に沈み、そのため今でも下流では赤い錆水が出るのだということです。この伝説をお教えてくれた柴や板井の人達は、おじいさんおばあさんから子、孫へというように聴き覚え、伝えられてきたのでしょう。
この伝説は単なるお話ではなくて、ある意味ではほんとうのことを伝えています。かつての沼は厚く堆積した泥黒色土が証明しています。立派なお寺は、発掘調査で確認された「寺内古代寺院跡」がそうです。聖武天皇が発願した国分寺程の規模と整った伽藍配置を持っていて、奈良時代に創建され平安時代末には廃寺になってしまいました。
「谷緑」の地名は湿地に由来するものですが、かつて沼があったころ、関東でも稀れな壮大な寺院が旧江南町に営まれていました。沼の水面には寺院の仏殿、塔の雄姿を映していたことでしょう。
大字板井・谷縁付近の航空写真
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