第50話「大坂」ーおおさかー |
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「大坂」は、町を東西に走る県道熊谷小川秩父線が江南台地を上る場所一帯を呼ぶ地名で、御正新田地区にあります。台地と水田面とは急な崖や坂になっている場所が多いのですが、この地名付近は坂の勾配が緩やかで台地を流れる雨水がつくった谷も集っています。このような地形の特徴から人々の通行が頻繁となり、幾筋もの街道がここを通るまでになっでいます。おそらくずっと昔から交通の要衝だったのでしょう。
現在の主要な道である県道や、東側を通る県道武蔵丘陵森林公園広瀬線の他にも、野原方面へ抜ける道・樋春方面へ通ずる道などが昔からありました。それらの道の分岐点や交差点には道を守る石仏が多く建てられでいて、かつての街道の様子をしのばせます。
石仏の主なものは江戸時代のものですが、周辺に残る古墳や古代の遺物を見つけることがあるので、もっと古い時代にも主要な道であったのかもしれません。
奈良・平安時代に伽藍のあった寺内古代寺院跡からは南方へ伸びる参道がみつかっています。幅9mの整った道です。この参道はどこから始っているのでしょうか。
この参道にふさわしい道が江南台地を、おそらく東西に通っていたと考えられます。当時の古道の実例は所沢市で発掘されています。
幅12mの道路で当時の武蔵国府(府中市)から上野国へ向い、ほぼ直線で造られ、ルート上には、熊谷市村岡付近も当っています。この道は古代東山道と推定され、主要な官道の一つで現在の国道に当ります。官道からは分岐する中小の道があり、現在の県道や町道に相当する規模の道が古代にも存在したはずです。やや時代は降り、建久二年(1191)、熊谷直実譲状にある領地境の記述に「西限村岳境大道」(領地の西側は村岡の大道を境とする)とあります。
「大道」は、古代東山道のことと推定されます。村岡は「市」が立つほどにぎわった場所で、東西から道が集っていたと考えられます。
西方から村岡(東山道)へ至る道は当然江南地域のどこかを通り、寺内古代寺院の参道と交わり、郡役所のあった川本・寄居方面へ続いでいたようです。
推定される古道は、現在の県道に相当し、道沿いには名残りを思わせる地名を拾うことができます。東から「大道下」「大坂」「大道南」などです。この「大道」が、古代には寺内寺院に続く道であり、中世も村岡の市へ至る道であったのでしょう。大坂の由来は、平坦な台地上から、水田の広がる平野に移行する場所、ここを通る主要な古道からきたものでしょう。
それは、古代・中世と江南地域一滞が人々の生活の大舞台であったことを物語っています。
大坂付近近景写真
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