第16話「野原」ーのはらー |
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「野原」は町の東南郡を占める平坦な台地上に位置し、和田川に面して東西に広がっています。地名の起りは平担な地形に上るものと思われ、地名辞典等でも多くの類例を掲ています。地区内には原の付く小字名が所々に残っていますが大方は神々にちなむ名・建造物から採った名がみられ、早くから開発の手が入っていたと考えられます。「能満寺・味尊堂・八幡前・諏訪脇・寺裏・元境内」は寺院神社の故地である可能性があり、能満寺伝承の背景とな地名です。
「道祖神・鹿島・庚申塚・能野・荒神」は土地の神、塞ぎの神にちなむものです。なぜ、このように寺社・神名に由来する地名が多いのでしょうか。特別な場所、聖域との認識が当時の人々にあったのかもしれません。有名な「踊る埴輪」を出土した野原古墳をはじめ、能満寺の伝承など幾多の歴史文物を伝えています。多くの参拝者で賑い、憩いの場ともなっている文殊寺にも古寂とした歴史が伝っています。貴重な文化財を多く残す「野原」の地名が記録に現れる時期はそれほど古いことではありません。
戦国時代末、豊臣秀吉は関東平定のため小田原城に篭った後北条氏と支城を攻めました。後北条氏は家臣団を招集し、対抗しますがあえなく亡びてしまいます。この項、後北条方の家臣、武士名を記した文書に「小田原衆所領役帳」があり、家臣団の構成や支配関係を知る重要な資料です。この文書中の御馬廻衆の項目に「閼伽井坊 捨三貫文 松山 野原」の記述があります。この一項は熊谷市野原と閼伽井坊と呼ばれた人々(又は寺院か)との関係を推測させます。「松山」は後北条氏の支城・松山城(現吉見町)の領地のことで、「野原」は「松山」領に含まれていたようです。閼伽井坊は個人名という上り寺院の一郡の建物に住む一団の人々を指すと考えられますおそらく閼伽井坊の人々は街々を住来した修験者の集団で、各地の交通・情報に通じていたため、戦国大名のために働いたのでしょう。文殊寺の広大な寺域は堀と土塁で囲まれ、内側にも方形に囲む堀が残るなと城塞であったことを忍ばせます。汀戸時代に寺領二十石の朱印状を与えられ、末寺364ヶ寺を抱える大寺院となり、現在も知恵の文殊寺として親まれています。
戦国末期の野原・文殊寺の様子は資料が少く不明と云わざるをえませんが、天正二十年(1592年)に甲斐武川衆の知行地へ与えられています。その後、元和年間(1620年頃)には旗本稲垣氏が領主に替り、「須賀広」に陣屋を置いた代官田村氏の支配を受けています。八幡神社に残る改修棟札に、稲垣、田村氏の名が残っています。
野原地内の文殊寺
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