第4話「御正新田」ーみしょうしんでんー |
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今回から市内の地名を取り上げます。「御正新田」は市の行政区の名杯で、旧江南町の東部に当り、熊谷市の樋春(ひはる)・成沢(なりさわ)と並んでいます。この地域はかつて春原荘(しゅんのはらしょう)と呼ぼれ、鎌倉時代にさかのぼる由緒を伝えています。
「御正」とは、御荘のことではないかと考えられます。荘は、平安時代から戦国時代末まで全国につくられ、主に有力な寺社、貴族に属し、私的な領地、領民としておおやけの政治支配から独立して直接領主や地頭の支配下に置かれていました。
町の周辺には、春原荘のほかに畠山荘(旧川本町)、篠場荘(旧川本町・旧江南町)、小泉荘(旧大里町)があります.
群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があります。南北朝時代、楠木正成と共に南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺です。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の家臣であった岩松家につたわる「正木文書」は、鎌倉、室町時代の北武蔵にかかわりの深い貴重な古文書です。この文書には、万吉(まげち:熊谷市)、小泉(大里町)などに加え、春原の名もみえます。当時、この地域は、新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、代官の岩松氏が当地へ派遣され、万吉内に在住していたことがわかります。
「御正」とは、新田家から長楽寺の御料所として寄進された土地のうやまった言い方であろうと推測できます。同様の言い方は熊谷市新堀にもつたわっています。旧江南町の場合は、御正村(領)とも呼ばれていたようです(写真)
「新田」とは、新田家のことではなく、新しく原野を開墾した土地の意味です。江戸幕府は新田開発を大名に命じ、農民にも奨励しました。旧江南町では、姓は不詳ですが六兵衛という人が代表となって、江戸時代初期に開墾を行ったと言われていますが、場所までは特定できません。
「御正新田」の名は古い地名ですが、古文書が残るという幸運があって由来を知ることができました。古記録、絵図などの古文書は、ぜひ大切に保存していただきたいと思います。
御正新田地内の浄安寺
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