第6話「樋春」ーひはるー |
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「樋春」と書いて″ひはる”と読みます。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつです。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残しています。現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっています。
明治五年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置しました。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字づつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均したのです。「樋春」の地名はここに誕生しました。
樋口は文字どおり樋(用水管)の口(取水口、水門)のある場所から起った地名です。現在も生きる吉見用水の水脈にはいくつかの取水口がありました。樋口は現存の熊谷大橋の場所にあり、万吉堰と呼ばれていました。また、樋口には荒川対岸の広瀬に渡る渡舟場があり、交通の要にも当っていました。慶長九年(1604年)甲斐武川衆の知行地となった記録が樋口の最古の記録です。
江戸時代万治三年(1660年)春野原村は樋口村から分村しています。しかし、春野原の地名の意味は良く判りませんが、春のように緩やかな土地だといったのでし上うか。現在は、日本第二位の古さ(安貞二年:1228年)を持つ春野原山真光寺の扁額にみることができます。
春野原は旧江南町で最も古く所在の確められる地名です。江南地方を領地としていた畠山重忠の未亡人は北条氏の娘であったので北条氏と近い足利義純と再婚し、畠山の家名と領地を受け継ぎました。貞応三年(1224年)の譲状(相続書類に当る)にみえる地名が「すんのはら」で春野原に当ります。この記録は「正木文書」と呼ばれ鎌倉時代の旧江南町に関する唯一のものです。鎌倉時代未頃には足利氏と同族の新田氏の領有地となり、代官岩松氏が、「春野原荘万吉郷」に住んでいます。
樋春地内を流れる用水路
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