読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

20話庚申塚こうしんづかー  

 テレビやラジオなど娯楽の無かった頃、気心の知れた村人達は集い、杯を重ねて寒さを払ったようです。けれど、いつの時代でもあまり頻繁だと、何処からか横やりの入るものです。そこで、誰もが納得する名目を考えて会を催すことに知恵を絞ったようです。
江戸時代の民間信仰には、正月の行事から始って、師走大晦日ま
で多数の行事が行われ、現在もそのままのかたちで、あるいはかたちを少しづつ変えながらも、継続しているものがあります。

 前回で紹介した道祖神・馬頭観音と同様に、多数造られた石造物に庚申塔があります。庚申の信仰は奈良時代に中国から日本へ入り、江戸時代に広く民間に普及しました。

 庚申塚はコウシン塚又はカノエ塚とも読みます。野原地区の小字地名にみえますが、小江川千代成沢地区などには、庚申塔を乗せた土盛の塚が残っていました。これは小字地名より詳しく、通称で呼んでいたようです。野原の「庚申塚」地名の場所にもかつて石造物を祀った塚があったのではないでしょうか。

 地名の由来とをっている「庚申」とはどんな意味を持ち、数多く造られた石造物や塚はどんな目的を持っていたのでしょうか。
 庚申は、干支の十干、十二支の組み合わせの一つで庚(かのえ)と申(さる)です。六十回に一回、巡ってくる日や年をいいます。中国渡来の道教に基づく暦法で明治時代まで一般に使用され、現在でも日常生活習慣に
大きな影響を及ぼしている考え方です。
 庚申信仰は、道教にある三尸(さんし)説と結びついています。三尸は人間の体に住み、庚申の夜に天に上り、天帝にその人の行いの善悪を告げます。大帝は、その報告により人の寿命を締めるので、これを防ぐため、当日は寝ずにいると、三尸は天に上れず、天帝に人の罪科を報告できないというものです。

 奈良時代の末に庚申信仰か渡ってきた当時は、慎み深く教えを守っていたのですが、時代が降るにつれ、大衆化し、多分に娯楽的色彩が加ったようです。村中の仲間が集り眠らないためには、順番に物語や芸をしたり、酒食を用意するなどして過ごしました。この集りは「講」と呼ばれ、幕府の農民支配からも許されていたようです。二月は農閑期に当り、春に始める農作業の相談も加えて、村人が集うことが度々だったのでしょう。旧江南町内に残る庚申塔(青面金剛・庚申など)も、天に上れなかった三尸の供養と己のしょく罪の目的で造られ、十一月・二月に多く建立されており、たいてい、数名から十数名、あるいは「講中」、「村中」の名が碑文にしるされています。


 大字野原字宮脇地内に所在する庚申塚の写真
野原宮脇地内に所在する庚申塚

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