第13話「塩」ーしおー |
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「塩」は文字のとおり塩と関係があるのでしょうか。土地から塩が採れたり、交易品として集った事実は明らかではありません。日本では食用塩は海でしか採れないため、内陸にある塩関係の地名は交易地・集荷場などと関係を見い出せない場合、別の意味が考えられます。県内には塩の付く地名に塩沢・塩谷・土塩がありますが、塩に関係しているのは、中世塩谷荘の名を受け継ぐ児玉郡の塩谷の場合で、他は無関係のようです。
視点を変えると先の地名は県北にあり、丘陵・台地などに谷津が入り込んだ場所に付けられています。地名辞典などには、「シオ」はシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明しています。おそらく、熊谷市の「塩」の地名も地形に由来するものと思われます。実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面からなっています。
古事記にみえるイザナギ・イザナミ両神の行う国産神話には、海を掻き混ぜた矛の先より滴り落る海水のコロコロと固まり重った塩が最初の国土になったとありますが、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージをシオに対して当時の人々は抱いていたかもしれません。このような谷津地形は、水田を造ることが容易なため古くから開拓されています。
別の説明には、渋・柴の意味をもち、シブイ・シポイという形容詞で、硬い土くれのやせた土地を意味するといいます。この説明は「塩」地区周辺の谷田・川沿の沖積地が古くから開墾されたことと関係するかもしれません。米作以前の生業は、焼畑を主としソバなどを植えたり、森の果実、根菜類の採集が主であったと考えられます。
こんな環境であったため、湿地に妙な草を植えると美しい実が獲れるという話が伝ると、なんとか種籾を手に入れ、開墾にも力が入ったのかもしれません。塩古墳群を造った人々は、この地にいち早く米作りを成功させたと考えられ、四世紀頃は、谷津田や和田川、滑川の周辺は稲苗が青あおとしていたはずです。
低地を拓き、斜面に住い、周囲に畑を持ち、背面の丘陵を山林として残し、頂上に祖先の墓域を安んずる。このような塩地区の景観は、まさに郷土の原風景を伝えているといって良いでしょう。
「塩」の文字が文献に見えるのは、戦国時代末期、武田家の旧臣甲斐武川衆の一人伊藤新五左衝門尉重昌に知行地として与えたことを記したものです。伊藤氏の領有期間は短かかったのですが、八幡神社の北側に館跡・常安寺には慰霊碑を残しています。また常安寺には太平記の時代に作られた板碑も残りますが、当時どんな武士たちがいたのかまったく伝っていません。
塩地区上空から赤城・妙義山を望む
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