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続膝栗毛

江戸時代後期の戯作者十返舎一九(1765-1831)の『続膝栗毛』に、弥次さん喜多さんが熊谷宿を訪れた際の様子が記されています。『続膝栗毛』は、『東海道中膝栗毛』の続編で、弥次さん喜多さんが、金毘羅、宮島の参詣を終え、木曽街道を経て江戸に帰ってくる旅行記です。
熊谷宿を訪れた弥次さん、喜多さんは、熊谷宿で有名な蕎麦屋「梅本」に入り、蕎麦を食べる。そこに2人連れの子供が入ってきて、一人だけ蕎麦を食べ始める。可哀そうになった弥次さんがもう一人の子供に蕎麦を振舞うと、実は二人の狂言でまんまと騙されてしまうという話。
此うち高柳、石はらをうちすぎて、くまがへのしゅくにいたる。
弥「ナントここに評判のそばやがあるといふことだ。いつぱいくつていかうか。」
北「ヲヲその梅本よ。ハハアここが布施田だな、これも評判のいいやどだ。ヤアそばやはこれだこれだ。(ト、打つれてかの梅本へはいり)」
弥「モシぶつかけをあつくして二ぜんたのみやす。」
そば屋「ハイハイかしこまりました(ト、さつそく二ぜんもつてきたると、)
北「なるほどいい蕎麦だ。そしてめつさうにもりがいい。したぢのあんばいも申分なしだ。
弥「コリャ一首やらずばなるめへ。熊谷の 宿に名だかき ゆえにこそ よくもうちたり あつもりの蕎麦」
(このとき十三四)のやつこのぬけまゐりと、ひとりは十才ばかりのわかしゆ、ふたりづれにてはいり、かのやつこあたまのいせまゐり、)
やつこ「そばを一ぜん下さいまし。」
わかしゆ「おれにもくはせてくんねいな。」
やつこ「ばかをいへ。さうは銭がない。これからたつた三百でえどまでかへらにやならねへ。手めへにやァさつき団子をくはせたぢやァねへか」(ト、いひながらひとりそばをさつさつとくふを、うらややましげに)
わかしゆ「おいらもくひてへな。」
弥「コリヤ小僧は銭がねへか。このあにいも邪見なやつだ。見せておかずと一ぜんくはしてやればいいのに。」
やつこ「ナニおめへこいつめは江戸を出たときから、みんなわつちがぜにでいせまでいつて来やしたわ。」
弥「それだとつて可愛さうに。コリヤ小ぞうおれがくはしてやらうからいくらでもおもいれくへくへ」(ト、そばをいひつけてやると、まへがみの小ぞうさもうれしげに、にこにこわらひがほして、)
わかしゆ「だんなさま有がたうござります。今朝木賃宿で人のおめしのあまつたのを、たつた一膳もらうてくつたまんまだからひもじくてなりません」(ト、がつがつしてそばをくふ。)
弥「おもいれたんとくへくへ」(ト、三ばいまでかへてくはしてやると、)
やつこ「手めへは仕合だ。もうえいか。サアサアいかうか。」
わかしゆ「コリヤありがたうござりました」(ト、はらがよくなり、にはかにげんきよく、そばやを出ると大きなこえして、)
わかしゆ「はこねさァ八里はへどつこいどつこい。」
弥「ハハハハ子どもといふものは現金なものだ。はらがよくなるとぢきにあのとほりだ。ハハハハ」(ト、此内そこにひとりそばをくひていらるをとこ)
「イヤ旦那は人がえいのだ。あんなことをいふはみなあいつらが狂言、たしかに旦那がここのうちへはいる所を見たものだから、抜参めらがふたりでひとりに見せていおてくふと云うがあつちの手ごとで、ちつとも年かさのやつがいつぱいをして、かたつぽをかはへさうだと人におもはせるやうにしかけて、なみだもろいだんながたをはめるしかけ、道中にやアいくらもあることだに、旦那がたは旅なれない衆と見えた。ハハハハ。」
弥「さてはさうかへ、いまいましい。しかし子どもがそんな知恵はあるめへ。」
北「エ、おめへその気だからいつぱいくつたのだ。いい業さらしの。」
弥「そんならあいつらをぼつかけてぶちのめしてやらうか。」
北「よしなせへ、さきは子供だ。こつちがちえのたらぬのだよ。ハハハハ。サア出かけやせう」
下の写真は、十返舎一九の『続膝栗毛』12編上(国立国会図書館デジタルコレクション)に掲載されている熊谷宿の鳥観図です。そこに忍岡常丸の和歌が記されています。
「うららかに 春はさむさも うすすみに 霞いろとる くまかへの宿」
*忍岡常丸(しのぶおかつねまる):姓は藤木、通称甚兵衛、屋号は常陸屋。江戸時代中後期の戯作者。江戸下谷上野町で呉服商を営む。十辺舎一九と親交があり、狂歌もよくしました。


熊谷宿の鳥観図 十返舎一九の『続膝栗毛』12編上(国立国会図書館デジタルコレクション)

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