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陸路廼記(くぬかちのき)

近藤芳樹が明治11年明治天皇の巡幸の様子を記録したもの。

明治11年8月30日、明治天皇は、北陸東海両道の巡行のため赤坂の皇居を馬車に乗って出発しました。8月30日は浦和、31日は桶川に泊まり、9月1日は熊谷に泊まっています。


昭和13年 本陣跡
「(前略)
九月一日くもれり (中略)熊谷の驛に近づける所に長き堤あり。左右に鐏まれる者ともいと多くなりをしづめて並び居たり。
うちむれて熊谷をとこ久下をとめむつましけにもみゆきまつなり
こは昔熊谷直実。久下直光といふ武夫。此所を領したりしが。境の争いひより。鎌倉にうたへたるを。ふとおもひ出てよめるなり。今も猶犬牙相接るにや。字を熊谷堤とも。久下堤ともいへり。また北條堤ともいふよしなるは。昔北條氏。此堤をつきて。荒川の水を南にながしし所なれば。元あら川といふ字ありとなん。其堤にてつみたりとて吟香小さき草を摘へきて。うけらといふはこれになんといへれば。
これもまたみゆきをまちて御恵の露をうけらのくさとこそみれ
驛の入口なる清水橋の東のつめに。小学の生徒五百人ばかり並居たり。其中に女の童も多くて。うるはしき衣着よそひ。並びたてるは。目もあやなりき。午後一時に高柳周蔵といふものの家に着きぬ。行在所武井耕一郎が亭の庭に。誰が袖といふ石の水盤笄石といふ石二個を置り。其傳へを聞に。加藤清正の朝鮮より取帰りて。豊臣太閤にまいらせしが。浪速の城に残りたりしお。年へて。松平忠明。かの城を守りたりしより。忠明の子孫相傳へて。忍城にもたらし来にけるを。明治四年。藩を停められて。松平氏。東京にうつりし時。耕一郎が父澹如に。譲り與へし者なりとぞ。二時ばかりより。吟香を伴ひて。行在所の主竹井が別荘に遊ぶ。取つくろへりともみえぬ庭なれど。廣き池などありて。水も清ければ。いとすずしく。のこんの暑さを忘れたり。中島の樫の下陰に榻を並べて。茶菓のあるしせり。狭山の花の友といふ木の芽ひさく翁も。周蔵がゆかりの者なるよしにて問きたり。此の人は。さいつ頃。おのれに歌乞ひしかば。其よろこびいはんとてなるべし。歌は。
さきにほうまるまちてつむきさきとや木のめを花の友といふらん
木の芽は。もえ出たる芽の先を摘たるが品尊とければ。これをきさきといふなり。けふ行在所へ。泥もて塑れる馬をもてまいれり。こは上中条村の中村孫兵衛といふもの。新墾すとて。地を穿ちけるに。庭より掘出たりとぞ。其寫せる圖をみるに。今の世の土師らの及び難きまで。巧を盡したり。おほかた中昔の亂れにかかる業皆。拙くなりにたれば。おのれが如きかたくななる愚者は。舊きにをさをさ心をも止ぬを。かかるをみてなん。古へのゆかしさもいとどまさりける。
二日熊谷をたつ。少しくもりたれど。(後略)」
明治天皇の一行は、久下を抜け、小学生500人程の歓迎の中、熊谷に着きます。高柳周蔵の家に着くとありますが、この人物は不明です(随行した供奉官の中に高柳周蔵の名有)。そして、行在所(あんざいしょ)となる竹井耕一郎亭の庭で、誰が袖石・笄石(こうがいせき)を見ます。そして竹井家別邸に行き、庭を眺めます。整った庭ではないが、広い池があり涼しかったと記しています。
その後、当時上中条村の戸長であった中村孫兵衛(1854-1933)が、上中条から出土した「泥もて塑れる馬」(馬形埴輪)を持ってきたと記しています。
この馬形埴輪は、明治9年に上中条から短甲武人埴輪とともに出土したもので、現在は両者とも東京国立博物館に所蔵されていますが、明治11年時点では、馬形埴輪を中村孫兵衛、短甲武人埴輪を根岸武香(1839-1902)が所持していました。

上中条出土馬形埴輪:東京国立博物館蔵