亀田鵬斎書で、寛政12年(1800)3月建立。本碑は道標を兼ねており、右側面には「東 ぎやうだ わたしば 道」、左側面には「南 くまがや 西 めぬま ほんじょう」と刻まれています。 鵬斎の書は、1812年以降の書が「フライング・ダンス」と形容される独特な字体となりますが、本碑はまだ踊る前の字体です。 亀田鵬斎(1752-1826)は、江戸時代後期の儒学者・書家・文人で、「寛政異学の禁」により、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失っています。 その後、各地を流浪し、60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って鵬斎の書を求めました。 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容され、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られています。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳も残されています。 また、鵬斎は心の優しい人柄でも知られ、天明3年の浅間山大噴火による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたり、赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てたり、定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っています。
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