松本平蔵(まつもとへいぞう)(1849-1923)
実業家。熊谷で安永元年(1772)より糸繭商、穀物商を営む家に生まれる。姉は清水藤左衛門(1880-1952)に嫁いでいる。始め長蔵と称し、幼少の頃、熊谷宿の本町に米田庄三郎が開いた玄染堂塾に入り、素読、習字、算術を学ぶ。
万延元年(1860)11歳で商業見習のため、小鹿野町の常盤屋加藤商店に入り、明治11年(1878)父丈助隠居のため家業を継ぎ、平蔵を襲名し、間もなく中村孫兵衛(1854-1933)の姉やす子と結婚。結果、清水藤左衛門の義理の弟で、中村孫兵衛の義理の兄となる。
明治29年(1896)秩父鉄道株式会社が設立されると、取締役・監査役に就き、中村孫兵衛と共に秩父の柿原万蔵を助け、私財を投じて鉄道開設に尽力した。
明治39年(1906)、日露戦争特需により乱立した製粉会社が供給過剰のため経営不振に陥った熊谷製粉会社を引き受け「松本米穀店製粉部」とする。大正6年(1917)法人化し「松本米穀製粉株式会社」を設立する。昭和5年(1930)名古屋製粉と群馬県新田製粉を合併し、「日東製粉株式会社」に名称変更し、全国三大製粉の一つに発展させた。
明治22年(1889)、第一回熊谷町会議員に選ばれ、大正8年(1919)まで町政の発展に尽力した。
また、私財を投じて鉄道開設に尽力し、荒川砂利採取、熊谷商工会、高崎水力電気と各方面に活躍した。
大正2年(1913)には、円照寺檀徒総代として、大原の土地を寄附し墓地を移転し、各寺院の墓地改葬の端緒を作った。
大正12年(1913)5月17日75歳で没す。
昭和4年(1929)には、松本平蔵翁遺徳顕彰会が、銅像の建設、印刷物の刊行等を目的として発足し、顧問に、中村孫兵衛(1854-1933)、石坂養平(1885-1969)、稲村寛一郎(1850-1933)、斎藤茂八(1885−1964)、委員に清水藤左衛門(1880-1952)他が名を連ねている。
下の写真は、大正3年(1914)〜大正7年(1918)の間に製作された絵葉書「熊谷松本製粉所第一工場」。瓦葺の白壁の倉庫と木造二階建ての建物、板塀と冠木門が写っている。門脇の板塀が一部開いており、交互に8段に積まれた袋が台車に積まれている。地面にはレールが左手前にカーブしながら敷かれていることから、この台車はトロッコで、製粉された商品を出荷するためのものと思われる。
大正3年(1914)〜大正7年(1918)松本製粉所第二工場と松本真平
参考文献
- 『松本平蔵翁のことども』1929 松本平蔵翁遺徳顕彰会
- 『熊谷人物事典』1982 日下部朝一郎
- 『熊谷市史』後編 1980 熊谷市