読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

17話結木塚ゆうきづかー  

  

地名が地名としての役割を持つためには、ある期間、呼び名や場所が変わらないことが必要です。しかし、長い歴史の中では呼び方が変化したり、全く新しい地名に替わったりすることがしばしばあります。
 今回から江南地区に二百余りある小字地名などを取り上げて、紹介していくことにします。

町の西部を占める「千代」・「」地区は松林と雑木林の広がる山林でした。一面の緑地が、かつて耕作地として開墾され、その証拠が細かく分けられた地番、小字地名に残されていることはあまり知られてないようです。また、開発に伴う埋蔵文化財の発掘調査によっても、地割に添った区画溝や芋穴、苗床状の掘り込みが無数に見つかっています。

 貞享二年(1685)千代村田畑名寄帳(小久保家文書)は、江戸時代の耕作地を書き上げた土地台帳に当たるものですが、現在の山林に所在する地名が、畑のある場所としてしばしば見られます。しかし、本編第十話千代」に紹介したように千代村の土地は痩せ、乾燥が著るしいため作物の成育に適さないと「地誌」に記されているとおり、耕作地の等級は、下畑・下々畑・林畑と最下等です。
 このような場所は、西原・植木・山神等と今も残る地名もありますが、今では見当らず所在不明の地名がいくつか記されています。
 
 結城塚」又は「結木塚」と記されますが「ユウキ」のある塚の意味です。ユウは木綿とも書きますが、もめんでなくアサ、フジ、カズラ、コウゾなどのあま皮から採る繊維をいいます。多くの場合、コウゾを指し、貴重な繊維として織物にも古代から利用されました。よく水にさらした繊維は細く強い、白く美しいものであったため、神に捧げる幣帛(へいはく)にも用いられ、榊の枝につけられました。

万葉集などの歌枕にもみえ、「心に懸る」「神にたむける」「うるわしく栄える」という意味を表わす場合に多く使用されています。

 このような意味を持つ「ユウ」のある塚が、千代地区のどこかにあったのでしょうか。また、何のために塚が築かれたのでしょうか。

 「千代」西部の山林中には、山神を祀った塚が残っています。一つは現在の小字富士山下に、他は山神に、それぞれ塚上に神の住いを示す立石と祠堂があり、大杉と榊が茂っています。荒地での開墾、耕作地の維持への腐心、その上、痩せて水利条件の悪い土地での作物の育成には、はかり知れない労苦と絶え間ない気配りが必要です。それでも土地はわずかな稔りさえ出し渋ったのです。

今は開墾前の山林にもどり、手向る人の絶えた塚は、樹木の間に埋れてしまいました。かつては、榊の幣帛が飾られ、芋畑を渡る微風に、絹糸のように白く美しい木綿がそよぎ、遠くには額に汗して鍬を振るう姿が見かけられたと思います。


 大字千代地内の権現坂遺跡内に所在した塚の写真
千代地内の権現坂遺跡に所在した塚(1989年撮影)

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