読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

29話四度梅原しどめはらー  

  江戸時代は、大規模な戦乱もなく平穏な期間が続きました。この時代、都市から農村まで学問、芸術が普及し、読み書きのできる人が増えたため多くの記録が残されました。とくに農民は、土地・税に関する記録を持つ必要から、文書を数多く造っています。各家に残る年貢割付帳、名寄帳等は、一般的に云われる百姓は読み書きができなかったという迷信を否定しています。
 文字に記録されるということは、在来の言葉として存続してきた多くの地名に漢字が当てられるため、かえって意味が不明となってしまう場合も少なくないようです。しかも、二文字の好字・吉字を付けようとする場合が多く、例えば湿地を云う「ツル」 が鶴巻・鶴田と表記され、鶴に関するもっともらしい説明がされる場合もみられます。
 このように、現行の漢字のみで地名を説明しようとすると本来の意味からかけ離れてしまうおそれがあります。「表」に対する「裏」の場合、裏を避け「浦」の文字に替えています。本来「浦」は湖や海が奥へ入り込んだ入江を、陸では入江状に平地が谷に入り込む場所を云います。大字御正新田の「宿前」と「宿浦」。大字野原の「丸山」と「丸山浦」などのように、多くの類例があります。
  「四度梅原(しとめはら)」は、植物の櫨(クサボケの一種)が多数みられる原野の意味も否定できませんが、別の意味を考えた方が良いように思います。「シトメ」 は獲物を仕留めたということでなく、「シメ」・「トメ」と同じ意味と考えられます。「シメ」は「閉める」・「標めす」を意味し、立入を禁止した場所を云います。「トメ」は「止める」・「停める」ことを云います。その場所には立入を禁止又は制限したことを示す「〆縄」を張り、禁令を明記した高札を目印として標示することが一般的でした。
 当時、村々には農民共同管埋の入会地があり、まぐさ場ともいい、薪炭・飼料用の草を刈るなど、広く利用されていましたが、同時に厳しい使用制限も受けていたようです。加えて隣村共同利用の場合には取り決めに違反して争議沙汰に及ぶことが各地で起っています。
 シメハラ、トメハラと呼ぶ立入禁示の場所は、鷹の営巣する山林を保護するため、これに当てるなど領主の都合や争議の解決手段としてたびたび行われていました。
 「四度梅原」の場所は、旧樋ノロ村の東南に位置するようです。現在、七社神社の東方に広がる畑地を呼んでいますが、土地改良前でも整った長方形地割をしていました。
 新編武蔵風土記稿には、樋ノロ村の東南に持添新田を開墾した記録がみえていますが、この地のことと考えて良いでしょう。地名の大本の由来は、開墾前の入会地であったころから受け継がれていると思われます。


 四度梅原遠景の写真
四度梅原遠景

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