第15話「須賀広」ーすがひろー |
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「須賀広」は、江南台地の南側で和田川に面する地域です。西南方向に緩やかに傾斜する平坦な地形と同方向に谷津が入り込み、奥には沼が造られています。なかでも大沼は面積2.4ヘクタールで町最大の貯水量を有し、豊かな水面に浮ぶ弁天島・青松に映える朱橋と美しい景観とともに憩いの場となっています。
町の開拓の歴史に占める大沼の位置は重要で、江戸時代初頭、須賀広村の成立に大きく寄与しています。では、いつ「須賀広」の名が記録に表われるのでしょうか。
天正二十年(1592年)に徳川家の家宰伊奈忠次より甲斐武川衆に与えた知行地に「すかひろの郷」の名がみえます。漢字では、「菅広」と書かれたようですが、江戸時代の始めのころには「須賀広」と使われることが多くなり定着したようです。
地名辞典等によると「スガ」又は「スカ」と「ヒロ」を組み合わせたものと説明され、この場合、濁音は意味に変化を与えないようです。「スガ・スカ」には、「@清々しい場所という土地の美称とA菅の生えた未開墾の場所」等の意味があります。「ヒロ」は、平たく広がっている地形を意味します。「須賀広」地区には「本田・東台」付近に古代のムラ跡が埋れていますが、他は「松原」の名のように山林原野が占めていたようです。しかし、菅の生えるような湿潤な場所も見られたようです。「重殿」はその名を冠した稲荷神社のある池付近をいいますが、かつてここに北から流れ込む小溝があり、流れる水音がチャラチャラと響き、ちょうど小豆を洗うように聴こえたため、「小豆とぎ婆さんが今日も出ている」という妖怪話もあったといいます。
元和年間(1620年頃)に旗本稲垣若狭守藤七朗重太の領地となります。当地へは代官田村茂兵衝重次を派遣し、陣屋を構え領地に含まれる「小江川」「野原」と共に支配に勤めたようです。江戸時代初期は、農民・武士とも新制度、領地、開拓と新時代の気運の高かった時でした。代官田村氏の治政の中で農業開発と生産量を高めた事が大きな貢績です。地名に残る「前新田」「新田前」「新田」「新田裏」はこの頃の開墾地と考えられます。また大沼の開さく、土手の補修から白掘と呼ばれた用水の整備まで行っています。これらの地名は「須賀広」の大半を占め、大規模な開拓であったことが窺えます。現在も残る整った新田地割、家屋の景観はこの開拓が今も生きるすぐれた土地改良事業であったことを物語っています。領内の寺社への援助も度々行い、保泉寺、満讃寺、釈迦寺等の復興を助けています。釈迦寺の門前には、当地では見ることの珍しい江戸様式の庚申塔が「成沢」境から移されています。銘文中の筆頭にみえる田村氏の名は人々に記憶される名として刻まれたのでしょうか。
釈迦寺の門前にたつ庚申塔
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