「西原」ーにしはらー |
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江南地区西部の千代と柴地区に西原の地名はあります。西原の地名は、同じ千代地内にある東原の地名と共に、居住地の南方(みなみかた)・北方(きたかた)を中心としたとき、その方向に広がる「原」を呼んだものと考えられます。このように東西の方向感覚を基に地名を呼び分けている例は、隣接する柴地区で、そのものズバリ「西・東」があります。千代地区の場合は前述のように「東・西・南・北」がそろいます。この方位を決めたと思われる場所・各方位の中心部には「上杉館」といわれる戦国時代末期の城館跡があります。現在ふるさと歩道の休息所が造られていますが、かつての千代村の中心に位置します。中心部に行政的な役所を置くことは、昔も同じで上杉館跡には、千代村の名主「小久保家」・「島田家」などの有力村役人の家屋敷でありました。
小久保家・島田家には、多数の古文書が残され、旧江南町内最古の太閤検地帳も伝わっています。この文書中には文禄年間(1690年代)千代村の地名が数多く載せられています。南方・北方・植木など現行名と共通する地名から、すでに忘れられた地名も含んでいます。
島田家文書には、西原・東原に関係するものがいくつかあります。文書によると両地域には、「御林(おばやし)」があったようです。御林は領主が自分の支配地内に設定した保護林で、立入・立木の切取を禁止しました。島田家文書中の文化8年(1811)の「村方取定連判帳」には、種々の約束事の一つとして、「御林山之儀ハ・・・百姓山立木盗取候モノ見附候ハバ立木壱本ニ付為過料5貫文」とあります。このように厳しく保護した理由は非常時の財源としての役目が強いようですが、広い意味では荒地の防止・水源保護・鳥獣保護など多方面に良い影響を果しました。過料とは罰金のことで、5貫文は約金1両程に当たる金額です。
西原・東原の御林はこのように大切に保護されていました。もっとも領主に無断で立入、訴訟沙汰になる場合もありました。そのため、監視がいっそう強まり、「山番」という番人が置かれることもあったようです。明治時代以降も森林組合が結成され、山林資源の維持活用が図られていました。
かつて、西原をはじめとして江南台地を覆う山林は、美しく手入れのされた赤松林とシイ・カシ類の林が大部分でした。下草を刈り取られ、落ち葉の掃かれた地面はふとんのような柔らかな苔に覆われ、涼やかな風が吹き抜けていました。さすがに現在ではこの様な里山の風景を見ることは難しくなりましたが、これらの山林に生活上の資源を頼っていた時代があったことを忘れることはできません。
西原遺跡全景・航空写真(縄文時代中期の集落跡)
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