第49話「縄面」ーなーめんー |
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この地名は荒川に面した水田と屋敷の一角を呼んでいます。「縄面」・縄面東・縄面前と共通する文字「縄前」が、地名で読まれる「ナーメン」です。
地形的には平担な沖積地に立地し、周囲は水田の広がるのぴのぴした景観をしています。伝承・記録については未確認の点が多いのですが発川の洪水にたびたび水田が流されたと推定できます。その土地や、荒地を新に開墾された時「検地」を行ったと考えられます。
江戸時代の押切村の検地は延享年間(1740年代)と比較的新しい時期に行われているので、新田開発に際して、再度行われているのかもしれません。
地名辞典によると「ナメ」は、なめらか、湿ったという意味があり、田と付いてナメタとした場合泥田の意味となります。また文字の通りナワとメンが詰まったとすると縄面は、本来「縄免」であって検地という、国土調査と税務調査を合わせたような制度と深くかかわっている地名であろうと推測されます。
検地は、土地一筆毎に測量し、場所(小字地名)・地目・面積・等級(上・中・下等)・生産高(石高)を明らかにし、耕作者(納税者)を定め登録した調査書です。
この検地帳は水帳ともいい、土地台帳と課税帳簿の役割を合わせ持ち、農村支配の基礎帳簿として常に整備されていました。この結果、村を単位とする土地と住民の支配が定まりました。何万石という大名、旗本の領地はこれらの村の生産高を合計したものです。租税として負わされた年貢は、農民一人毎ですが、確実に収納させるため村請負制とし村全体の連体責任としました。名主の家に残る「名寄帳」は、課税のため農民の持つ土地を個人別にまとめた帳簿で、年貢を一人毎に負わせる事務を容易に行うため作られています。記載欄には農民の確認印や署名がみえ、農民の生活を左右する重要書類であったことが忍ばれます。実際の測量には間縄という長さ十間(18m)の麻・しゅろ製の縄を使用していました。このため検地を行うことを「縄打」ともいい、検地帳を「水帳」とも呼びました。
最初に測量した場所、つまり縄を打ち出したところには「打出」の地名が残ることがあり、樋春、御正新田に「北内手」「新屋敷内手」がみえます。おそらく縄面は縄免であり、検地の結果、縄余りになった場所のことで、余剰地だったのではないかと考えられます。いわば免税地で、このような特典は検地を授助した地元有力者や寺社に与えられる場合があったようです。
また、免は年貢額自体をさすので、検地を行ったことや、年年貢額が定まったことへの記念的意味を込めて呼んだことも推定できるでしょう。
縄面付近近景写真
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