第39話「諸ヶ谷」ーもろがやつー |
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町の南西に位置する塩地区は、地形上「比企丘陵」に含まれ、丘と谷が良く発達しています。谷津と呼ばれる谷には泉があり、これを利用した溜池が、必ずといって良い程築かれています。丘は雑木林に被われ、陽当りのいい斜面には、畑が拓かれます。また、古代からの遺跡も多く、この土地が人々の生活の舞台として適していたことがわかります。それは余り目立ないことですが、生活基盤である土地の活用が風土に最適な優れた開拓、土地利用であることの証です。
今回取り上げる「諸ヶ谷」は、前述のような開発史の一コマを秘める地名と思えます。この地名の場所は、丘陵上から谷までを含みます。丘陵上には塩古墳群の一群をなす数基の古墳が残り、滑川の流路に続く西向の谷津には溜池(沼)が築かれています。畑の広がる斜面部は、山を背に負う居住の地に相応しい立地条件を備えています。
モロはしばしば「諸・帥・茂呂・毛呂」等の漢字で表記されますが、多くの地名がそうであるように漢字の意味はあまり重要ではありません。モロの地名は、次のような地形・立地・環境などの条件を持つ例に見ることができます。まず「山」そのものの意。人里に近い山を云い、山の斜面、谷地形も含んでいる場合。「脆い」から崩れ易い所の意味もあります。次に神・精霊などの恐れ敬うべき対象である「モノ」の意で、古墳はその条件に合います。いずれも地名の説明に良好ですが、もう少し想像を働かせ中世武士団の一党「毛呂氏」との関連を考えてみたいと思います。毛呂氏は、丘陵地形の発達した毛呂山町一帯を根拠地としたとされる鎌倉〜室町時代の武士団です。
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、毛呂太郎李光が将軍源頼朝の側に在って重用されたことが記録されています。さらに、一族の毛呂李綱には、頼朝伊豆配流の折、部下を扶助してくれたことへの返礼として領地を与えたことが、建久四年(1193)二月十日の条文に記されています。その土地は 「武蔵回泉勝田」で、現在の滑川町大字和泉・嵐山町大字勝田とされ、塩とはまさに隣の地です。
和泉の三門という場所には館跡が、同所の泉福寺には鎌倉初期の阿弥陀如来像が伝わり、鎌倉〜南北朝期に作られた板碑が数多く残るなど、有力武士の実在を証するに足る充分な資料があります。
その有力武士は毛呂氏と考えるのが穏当で、塩周辺も行動範囲に入っていたと推定され、滑川に沿う水田・谷田の経営、さらに駒込の地名にみられるような馬の飼育地としての谷津の利用も想定できると思います。
その後の毛呂氏は文献にほとんど登場せず、まして本町との関連のある資料は見当りませんが、塩の地は中世武士の活躍を偲ばせる風土と景観があるのです。
諸ヶ谷付近近景
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