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             ふるさと再発見地名は語る

28話蔵屋敷くらやしきー  

 「蔵屋敷」は、荒川に面した押切地内にある地名です。現在の熊谷大橋から宝幢寺付近を云い、住宅地・畑地と水田からやや高い自然堤防上です。北側は堤防を越えて荒川の流路になりますが、明治以前は『堤防なし』(武蔵国郡村誌・明治8〜9年調査)の状況で、同所を東西に走る吉見用水も通っています。付近には同用水路の樋ノロ取水口(大字樋春字樋ノロ所在)、熊谷市広瀬へ渡る渡船場もあり、同地一帯は、荒川を利用した交通・経済上の拠点となっていたようです。

 この様な場所は、荒川流域では四十ケ所以上存在し、河岸場と呼びます。
 河岸場は荒川を利用した水運により、租税・物品等の物資を集め、交易・搬出の事務を執り、保管用の施設を備えた場所ですから、船着場・荷揚場や倉庫が並ぶ様子がイメージされます。現代風に云えばウオーターフロントオフィスの跡地です。

 江戸時代の水運は、輸送の大動脈であった荒川本流とその支流が盛んに利用されていました。武蔵国内には大消費地「江戸」を抱え、江戸で必要とされる様々な物資を供給する役目を負っていました。また、幕府直轄領・旗本知行地も多く、ここから上納される租税(米など)特産物も運ばれていました。

 押切が、立地上の好条件を有していたことは郡村誌にも『西北に荒川を帯ぶ輸送便利薪炭不乏』とみえ、さらに『荒川ー二等川に属す深さ三尺(約0.9m)幅四十問(約72m)急流澄消船筏通す』とも記載されています。この記事から、押切に河岸場が存在したこと、薪・炭が特産物として出荷されたこと、船・筏が通行していたこと等が推測されます。

しかし、古文書等では押切に河岸場があったことは確かめられません。埼玉県史「荒川−人文」では寄居町大字末野と熊谷市大字久下に河岸場が、押切には筏組立場があったと記されています。筏は、江戸の木材需要にこたえるため、荒川村など秩父地方から頻繁に出荷されたようです。現在より水量の多かった当時の荒川を下る筏流しは、雄壮であったでしょうが、魚網・堰に損害を加えた事故も多く、訴訟事件が頻々起りました。

郡村詰には、「千代村−薪四千百束、炭八十俵、押切村−清酒百十九石八斗余(約22t)」が物産に、記載されています。これは換金商品として出荷されたと考えられます。また記載はありませんが台地に育った赤松材も筏に組み出荷されたと思われます。

 地名の由来はおそらく水運関係と考えられます。一方、別案では、陣屋や名主屋敷に置かれた年貢収納用の蔵が所在した場所を云う場合と、災害飢饉に備えた一村共有の備蓄倉(郷倉)を云う場合もあります。蔵(物品を収納)と倉(穀物を収納)地名は未だ多くの問題を残しています。


荒川の土手と蔵屋敷付近の写真
荒川の土手と蔵屋敷周辺

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