第43話「鹿島」ーかしまー |
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旧江南町内には同じ地名を持つ場所がいくつかあります。今回はそのような地名のひとつとして「鹿島」を取り上げてみようと思います。
「鹿島」の地名は現在では野原・板井地内に残っています。また隣接する旧川本町本田にもあります。
地形的には台地上・河岸段丘と異なるようですが、台地の裾・川沿いと地形の縁辺部に位置しています。そしてこの縁辺部は旧村の境界に一致する傾向があるように思われます。
それぞれの場所を見直すと、野原は旧万吉村との間、板井は旧塩村との間、本田は旧押切村または旧武川村との間になります。さらにこれらの場所では明治時代以前に鹿島社が祀られていたことが判っています。現在は野原の八幡神社、板井の出雲乃伊波比神社、本田の春日神社に合祀されてしまい社は残っていません。地名だけが残されたものと考えることが適当のようです。
地名の起こりはこの鹿島社の存在と鹿島神の信仰に由来する可能性が大ですが、なぜ境界の地に社が造られたのか、鹿島神の性格共々考えてみます。
鹿島神は天神の中の経津主であり後に建甕槌命が加わったとされ、両神は豊葦原中国平定の際に登上する「武」の神で「荒ふれる」の形容詞のような強い力を持つとされています。神話時代の国土平定に武威を発揮したところから、奈良・平安時代以後の蝦夷征討東北進出において祀られる場合が多く常陸国に座す鹿島神宮がその拠点となりました。当時常陸は蝦夷との最前線で朝廷の力の及ぶ境界でした。この境界を守る強い力は、敵・災害疫病などの邪悪な力に対抗できると信じられ、境界の場所に祀られることが多かったようです。その場合鹿島神の人形を置くこともありますが多くの場合、「甕」を裾えたり、埋める祭祀が行われたようです。祭祀に用いた甕の中には酒を入れたらしく、スサノオノミコトのヤマタのオロチに使われる甕の例に象徴的に表われています。
「甕」は強い力を内蔵するものとして、また神自身を封じ込める聖器として利用されました。日本では、縄文時代を淵源とする甕への信仰があると思われ、大小様々・種々形作られた甕が時代を超え各地の遺跡から発見されています。神名中の甕の文字は、信仰の一面を伝えているようです。鹿島社の合祀された出雲乃伊波此神社の「八雲橋潜り」が麻疹に効果があるとされるのは、鹿島神の強い避邪力に根ざすとも考えられます。さらに境界の地に祀られる意味には災害・疫病などを寄せ付けないことに加え、この力を持って異境へ旅する人の安全を護ってくれるという思いもあるようです。
町域での鹿島社の建立は中世以前と思われますが、はっきりしたことは不明です。ただ武神であるため、武士の信仰は篤いようです。
鹿島神社近景
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