第23話「釜場」ーかんばー |
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「釜場」は、『カンバ』 と呼ばれ、小江川地区の西方にあります。高根神社に接し、釜場沼を挟む丘陵地で、畑地や山林となっています。この地名はいつから呼ばれ始めたのか判っきりしませんが、戦国時代の頃と思われる伝承があります。
増田四郎重富は、文明年間 (1470〜80年代)に野原の増田館(現文珠寺内) に居住したといいます。重富は小川町高見の四ツ山城を本城としていましたが、周辺の江南地域まで支配していたようです。いつの時か定かではありませんが重富が出陣した折、カンパの丘に登り、食事を取ったと言います。飲食に使った釜・鍋が目立ったのでしょうか、以来「釜場」と呼ぶようになったそうです。これは伝承の域を出ず真偽の程は不明です。
地名辞典等によるとカマは窯・釜・鎌のことで、陶器を焼くための施設、煮炊きに使用した金属性の器、草を刈る刃物に関係した意味を持っています。現在の文字「釜」に注目すると煮炊きの釜になり、凹んだ場所、行き止まりの地形をいう場所が多いようです。しかし、地名を考える時、文字は時代により人により適当な漢字を当る場合があるので、何んと読まれるのか (読み方)を重視します。
戦国時代の小江川の場合も「老川」と書かれた(関東郡代伊奈氏文書)くらいですから「釜」の場合も注意が必要です。読みからいえば、カマ(釜)ではなく、カンです。
地名辞典などには、カンパを「神場」・「神庭」とし、神のいる場所、神社に奉仕する場所・神事などを行った人たちを意味するとしています。旧江南町の「釜場は神場だったのでしょうか。
同地に前述の意味を跡づける証拠が残っているのでしょうか。
昭和5年発刊の「大里郡神社誌」には、高根神社は高根山付近より現在の場所(小字山中)に移ったと伝えています。また、小江川地内に点在していた小さな神社を移転合祀したことも記しています。本書によれば「釜場」地内に 「稲荷神社」が所在していたようです。明治8〜9年に調査された「武蔵国郡村誌」を見ると、小江川村の中に稲荷神社は218坪の敷地を持つと記述されています。「釜場」地内のどこかにこの社があったようです。
「釜場」の丘を登ると頂上付近の畑に、歴史の証人のような椿の古木が日だまりの中にたっています。丘を渡る風にざわめく枝葉の声は昔日の出来事をつぶやくようです。
おそらく、この場所に社があったのでしょう。稲荷神社は五穀の神である倉稲魂命を祀ります。墓園造成前に行った発掘調査で、小江川地域で最初に米作りを行った3〜4世紀の村跡が発見されています。
おぼろげながら地名・神社・遺跡と継りそうです。この推測が正確かどうか、あの椿は知っているでしょうか。
古代の住居跡と高根神社の森
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