読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

9話上新田かみしんでんー  

 上新田」は町の北西に位置し、旧川本町大字本田と接しています。江戸時代以来、「三本」「押切」の小字でしたが昭和52年に大字「上新田」となりました。

 地名は「」と「新田」の合成で、「」は方角を意味する形容詞となっています。当時の方向感覚は、天皇の住む京都が日本国内の中心で上方と呼ばれました。

 つまり、京都に近い方を上、遠い方を下とします。東国では西を上、東を下とし、西国では逆となります。前後は南を前に、北を後としています。このように方角を示す意味が付け加えられているとき、どの場所(地名を付けた人の住む所など) が中心なのか推定できる場合があります。「新田」は、新たに開墾された土地のことですから、「三本」「押切」より西に拓けた耕地を呼んだことになります。

 前回も紹介したとおり、「旧江南町」には、戦国時代末に土着した武士の家系を伝える旧家があります。とくに徳川氏の関東入国後は、関東郡代伊奈忠次により旧武田家の家臣団が荒川周辺に知行地を与えられ、村の開発の先頭に立つ有力者に成長していきます。彼らは新たな新田開発を進め、産業を盛んにしたのです。伊奈氏は江戸幕府の農政官として、多くの新田開発・河川の治水工事を完成させています。

 熊谷市域では、「大里」ー久下間の荒川流路付け替えという工事を行いました。伊奈氏に恩恵を受けた、旧武田家臣団はこれらの工事に積極的に協力していることが伊奈家文書からわかります。伊奈氏の事業の成功はこのような人づくりに負うところが大きいのではないでしょうか。

 諏訪神社は以前、柴田家の氏神で同家の鬼門(艮寅−北東の方向)を鎮る方角に建つ神社です。武田氏の信奉した信濃の諏訪大社を勧請しています。本殿は町の文化財に指定され、これを飾る彫刻には武田家が滅亡し流浪のはて、土着するまでを表現したと伝えられています(写真)。

 毎年、秋の祭礼に屋台囃子の音色が、「上新田」の家並をめぐるといいます。


 
諏訪神社本殿の彫刻

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