『ホトトギス 第20巻第9号』「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」大正6年
大正6年(1917)4月に、館林・太田を訪れた「ホトトギス吟行会」の高浜虚子(1874-1959)一行が、利根川に浮かぶ舟橋を渡って妻沼・熊谷宿を訪れています。『ホトトギス』第二十巻第九号(大正6年:熊谷図書館蔵)に「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」と題し、その時の様子がイラストとともに掲載されています。
「船橋とどろ(第一の馬車)」:岫雲
「(前略)無休憩の急行で馬車は森や村を駆け抜け今利根川の堤に這ひ上った處である。馬車が堤を下りざま凄い音が轟いて危く板橋を渡るのであった。
(略)三台の馬車が広い河原に下りた。一同歩行する事になる。銘々襟に分福茶釜の縁喜をさして利根の本流にかかっているへなへなの船橋をトドロと渡りはじめた。空車が後から続いて渡る。この船橋は一町余の長さであった。」雨期に入って利根が汎濫するときは取りはづせる様になっているのださうだ。「此の堤が切れた日には妻沼の木立は一本もあまさず水につかって了ふんです。」と誰かが話していた。馬車の中でも随分寒い風にあてられたが橋上は一層強い風が吹いている。(略)瀬の中に水車が一つ廻っている。砂利をとる舟が一二隻岸によって浮かんでいた。川下の白帆は満帆に日を浴みてはらんでいる。
(略)妻沼の聖天の前で馬車が止まった。傍にホトトギス吟行御休憩所といふ大看板が立ててある。障子に三浦屋と貼紙がしてあった。」
この船橋は、それまで渡し船で行き来していたものを、明治17年舟橋にしたもので、大正11年に木橋「妻沼大橋」が完成している。
当時、太田・妻沼間の利根川は、大きな中洲があり、利根川の流れが2分されており、細い支流の太田側の橋は木橋、本流の妻沼側は船橋になっていました。
太田から中洲までは馬車に乗って通れ、船橋部分では馬車を降りて通っていたこと。利根川に水車が設置されており、砂利採取の船や、帆掛け船が利根川を運行していたことがわかる記述となっています。
『ホトトギス』第二十巻第九号「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」挿絵
利根川の舟橋を渡った虚子一行は、妻沼の歓喜院を訪れ、本殿の彫刻を見学しました。その後、門前の三浦屋で、「木の芽」を題材にした句会を催しました。
「妻沼」:虚子
「馬車を下りてふらふらする足もとで山門を潜った。馬車の中から遠望した時には色とりどりに木の芽を吹いた新緑の森とばかり眺めていたのであったが、かかる田舎には珍しい大きな建物が目の前に静つていた。本堂を包んでいる彫刻が特に有名なものださうで一疋の猿を足の力爪で引き浚へている鷲の姿勢や、その鷲の方に尻を向け乍ら振り返って手を翳している他の猿の姿勢などは、流石に目を止むるに足るものであった。これは一つの扉の彫刻であったが、其他壁といはず欄間といはず悉く木彫りで成り立つているので、今は大方剥げているけれどもところどころに残っている丹碧の色と相俟つて、此田舎には珍しい贅沢な建物と思はしめた。一つの瓦頭口は、二疋の蛇の交んだ形で出来て居る。もと聖天といふものは男女が抱擁して居る形とか、此瓦頭口にあるやうな蛇の交んだものを本尊として祀っているとかいふやうなことを聞いて居る。或は人間の生殖といふことを極く真面目に考へてそれを祀ったものかもしれない。その聖天様が、此妻沼の森の中で斯く人工を尽した彫刻の壁や欄間に取り囲まれて、堂々たる威容を示して居ることは珍しいことに思はれて、眼を瞠つて見た。普通の参拝者は囲ひの内部へまで立入ることを許されないのださうであるが、我等は其を許されて、巣霞、露耕、晴崖、刀■、如洗の諸君の他に二葉國手も来て案内や説明の労をとってくれた。
此聖天堂は斎藤実盛の次男の、斎藤六實長といふ人が出家して阿謂法師といったのが、建久四年に鎌倉の免許を得て関八州を勧進して四年間かかって造立したものを、天文二十一年忍の城主成田下総守が再興したものだといふことである。兎に角田舎に珍しい建物といはねばならぬ。参拝を終へて木の芽の吹き満ちた周囲の森の中を歩いた。天を摩する大木に龍の如き藤の大幹の這ひ上っているのを、下から見上げた景色は雄大であった。
山門前の三浦屋といふ料理店の裏に立札がしてあってそこが俳句会の席場になっていた。木の芽十句を作って互選した。
作者二十八人。選者二十三人、互選結果、虚子(拾八点)、零余子(拾七点)石鼎、巣霞(各十四点)、月舟(十二点)、一水(拾一点)、瓜鯖、花囚(各拾点)、的浦、鳴潮(各九点)以下略。
高点句
六点 桑の芽に 沈みて低き 藁家かな 虚子
五点 木々の芽に 軒の古簾を 捲きにけり 月舟
四点 行楽の 人の面吹く 木の芽かな 虚子
同 木の芽吹くや 大きく明けし 沼の朝 一水
其他
沼を翔りし 鳥来てとまる 木の芽哉 零余子
日に光りて 駒鳥わたる 木の芽哉 零余子
大風の 曇天にひろし 枝木の芽 岫雲
かげりては 光る湖畔の 木の芽哉 鳴潮
木々の芽の 明るさにとぶ 蝶々かな 的浦
大木立 頂高く 芽を吹けり たけし
舟橋の 風強かりし 木の芽かな 瓜鯖
八重の櫻を ゆさぶる風や 木の芽吹く 虚子
欄干の 人に親しき 木の芽かな 虚子
会の終わったのは四時頃であった。」
安政6年(1860)刊『根本山参詣路飛渡里案内』に描かれた「三浦屋」
歓喜院で句会の後、虚子一行は熊谷宿へ向かい、熊谷寺で、宝物(東行逆さ馬図、鞍、鐙、珠数、蓮生自作像など)を見学します。
「熊谷の名所を見て俳句会へ」 零余子
「二臺の馬車に押しつけられていた吟行團は熊谷の人々の中へ吸ひとられて行って、帽子の渦巻きとなつているのが、何とか祝賀会とでも謂ひさうな賑かな光景だ。熊谷の町に向つて一團が練り行くのが晴れがましくつて極りが悪い。不図前の方を見ると、遥かに見えるのは先頭の旗である。「歓迎俳士ほととぎす吟行團」と筆太に書き流してある。俳士が合点が行かなかったが、これは俳誌を書き誤ったださうな。多勢の見物がかういふ一行をけげんな顔で見送っていたが「俳士劇が繰り込んで来たのよ。」と囁き合っているのが皆の耳に渡つて行つた。恰も此地に「高濱劇座」といふ連鎖劇がかかつているさうで辻にびらがぶら下つていた。何だかものがこんぐらかりさうだ。
蓮生山熊谷寺は間近にあつた。一行は本堂の階段を塞いで、歓迎旗を中心に、あちこちに固まつてざわめいていた。それが熊谷旗揚げの場面を俳士劇で見せるのではないかと考へて見た。それは撮影を待つ暫くの間であつた。
撮影がすんで宝物を縦覧する事になった。宝物縦覧所といふ札の懸つた玄関に下駄を残してぞろぞろと上つた。板間は曇つて光らない。そこへ洋傘や、分福茶釜の土産や、呑龍様の絵馬やをがたがたと置いた。どつちの方へ行つたらよいかと思つていると、すぐ前にある障子が開いた。煤けた障子に目をとめて中を覗くと、そこには幾人かの人がいるらしい。何だかか暗くつてちつともわからないが、何かをぢつと眺めている人や、手を触れている人がある。障子を這入つて見ると思つたより薄明であつて定かにものの形が見える。これが宝物だなと思つて鞍や、鐙や珠数などを眺める。
坊さんが壁の軸の前に立つているのでその方へ皆が詰め掛ける。「此れは何とか。」と大きな声を立てて軸の説明をしているのが断続と聞こえる。私も坊さんに眼をとめる。蓮生法師逆馬の圖である。それは法師が東帰の際、西方に尻を向けないといふ願を立てて逆に馬に乗つて関東へ帰つて来たのを那須清信が書きとつて、徳大寺實維卿が賛歌している。古びたものである。蝋燭の焔が低い處を照しているので馬上の直実が芭蕉の顔みたいに見える。それから坊さんは種々の宝物を熱心に説明した。然しさう宝物に許り時間を割くわけにも行かないので、間も無く其部屋を見棄てて、今度は本堂の蓮生法師自作の像を拝し、其から御墓や熱盛の碑を見て引き上げなければならなかつた。一行が門を出るのを見送つて坊さんは立つていた。千甕伯はあとに止つて御墓を写生していた。」
「館林、太田、妻沼、熊谷吟行の記」に描かれている夕暮れの熊谷寺
熊谷寺見学の後、虚子一行は、薄暮の中、竹町から池亭(現・星渓園)を見学し、荒川の桜堤に出て、一人の芸者とすれ違います。
「薄暮であるが、まだ灯はつかない。熊谷の町を抜けて竹町といふに出た。両側は瀟洒な家が並んでいる。御神燈のともつてある下には朧げに下駄の鼻緒が見えてなまめかしい。そこを突当つて竹井耕一郎氏の「池汀」を見せて貰ふ事になつていた。高橋松濤君は私に熊谷俳句会の事を語つた。同君は私には古い俳友であつた事を知つた。
池の畔には先着の虚子先生を始め多数の人が鯉を覗き入つていた。私は一人小さい橋を渡つて故皇太后陛下御成の間の前に立つた。さうして瞑目して陣屋であつた往時の事を懐うて見た。当時の陣代であつた竹井氏は今も尚ほ此の池亭の持主である。灯をともしたのでうしろの御成の間の障子は庭樹のかぶさつた中に薄赤く染まつた。私は暫く其茜さした障子を見ていた。此清泉が綾瀬川の源を為すのださうな。
門を出ると、一行はどこへ行つたのか見えない。熊谷堤に上ると私の遅いのを見に来ていて呆れた松濤君を見出したもう櫻はない。そこには小さな淫祠がある。ことりと音のするのに気をとめると、祠を立つて行く一人の芸者を見た。祠には線香の火が明るく彩つている。少し行くと稲荷社がある。
堤の櫻は植えつけて三十年程になるといふ事である。それは竹井氏、林などの尽力の下に出来たので、其林幽嶂老は水明会員として蓮生寺で我等をお迎へくれられたかくして熊谷堤の櫻は観櫻を名所として漸く世に宣伝されようとして居る。彼の堤の縮屋殺しの頃は此櫻はまだなかつたものであらう。
櫻の枝をくぐりくぐつて可成遠く行つた。或る枝にサッポロビールの紅提灯の被せのが懸つているのを見ていると、あの家が櫻雲閣ですよといふのでやがて堤の下の大きな建物の玄関に立つた。」
池亭(絵葉書:大正末) | 熊谷堤と稲荷社(絵葉書:大正末) |
池亭を後にした虚子一行は、櫻雲閣を訪れ、「燕」を題に句会を催しました。
「櫻雲閣といふのは、もと御寺であつたのが、中学校になり、小学校になりして、今は公会堂に使はれているとの事である。随分大きな建物である。私等は一行に余程遅れて席についた。席といふのは二階である。四十八畳であつたかと思ふが、一行と熊谷の俳人と合はせて五十人程の人がその一間に居流れている。私は相談を受けて句会のプログラムを作つた。今日は作句のみをして席上選句を省略し、後日虚子先生の選を願ふ事として先生に俳話を願ふ事になつた。一行は晩餐の箸をとり上げた。千甕畫伯は単身帰られたものか遂に席上に姿を現さなかつた。虚子先生、石鼎、月舟、青峰の諸氏と私は集つて来る色紙と短冊を一枚も余さず塗りつぶした。和久井吟笑、廣瀬水楓、斎藤大霧楼、鈴木具川、斎藤紫石、斎藤紫山、馬場孤星、棚霧露翠、棚橋酔月、大倉芦川、高橋松濤諸氏の斡旋につとめているのを見た。予定時間を少し遅れて八時三十六分の上りを待つた。あとの句会はどんなに盛んであつたらう。
席題燕五句。虚子先生選句。
燕飛ぶや 雨をもたらす 南風強し 零余子
巣燕に 高荷取り入るる 大雨哉 同
陰晴の 日の大風や 燕無し 岬雲
巣燕に ラムプ淋しや 峠茶屋 石鼎
浜燕 月落ちてあり 海廣し 一二
山頂に 汗拭ふ上を 飛ぶ燕 青像
(聖天山門)ふと仰ぐ 眼に燕の尾を 見たり としを
燕に 緋をのみ張れる 緋雨哉 晴崖
集燕に 馬おとなしや 百姓家 巣霞
飛ぶ燕 草家の庇 細雨あり 吟笑
荒浪に 見え隠れする 燕哉 花重子
軒並に 漁具掛けて住むや 燕飛ぶ 青峰
燕に 櫻の夢の 紅き哉 的浦」
明治末から大正期にかけて発行された櫻雲閣の絵葉書