壬戌紀行(じんじゅつきこう)
蜀山人(太田南畝:1949-1823)著の『壬戌紀行』(別名「木曽の麻衣」)を紹介します。
蜀山人は天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人です。享和元年(1801)2月から翌2年3月まで、支配勘定として大阪銅座に出張勤務し、その任を終えて、中山道で江戸へ帰る旅の紀行文『壬戌紀行』を残しています。
享和2年3月21日に大阪の宿舎を発ち、4月4日に高崎を経て倉賀野に宿泊、4月7日に江戸に到着という、15泊16日の中山道の旅です。「壬戌」はこの旅をした享和2年(1802)の干支になります。
4月5日に群馬の中里、岩鼻を経て深谷を通り、熊谷で宿泊し、翌日久下から蕨へ向かっています。
「・・・東方村の人家をこえて左に堂あり、左右ともに松の林にくさぐさの木交りたる所をゆく、ある人家に太鼓三味線はりかへといへる札出せるあり、此あたり童のはくわら履をつくりて売るもの多し、かご原村にいほり村をすぎて、右に知番山といへる額かけし寺あり、高柳村のきぐい村の人家をすぎて砂川をわたり、新島村の立場をこえゆけば、右に寺あり、自是南忍領といふ石表あり、一里塚榎をへて左に自是東南忍領といふ印あり、爰の人家に斉田塩安売一俵四百三十二文一升廿八文といふ札あり、石橋をわたりゆけば小川ながる、熊谷の駅にいれば道はば岡部よりもひろく、人家ごとに賑ひて江戸のさまに似たり、木戸にいらんとする左の方に蓮生寺見えしが、日高ければ宿につきて後に見んとてゆき過しぬ、人家に即席料理など書る看板あり、薬売るものの軒に出せる招牌に、薬種とかける文字はじめて楷書に書て、江戸の薬舗に異ならず、去年東海道よりはじめて、京大坂の町々をも見しに、薬種の文字はかならず草書にかきて見えしが、けふはじめて江戸にいれる心地す、かばかりのものも故郷なつかしく覚ゆるは旅人の心なるべし」
東方村から、籠原村⇒高柳村⇒新島村・忍領石標・一里塚・石橋(養庵橋)⇒熊谷駅・蓮生寺と辿り、薬屋の看板が楷書であることに江戸に戻ってきた心地がしたと記されています。
忍領石標
一里塚
熊谷に着いた蜀山人は、布施屋旅館に泊まります。
「布施半蔵といへる宿にとまり定めて湯あみ物くひ酒のみなどしつつ、まだ日も暮れねば蓮生寺のうら門より入りて見るに、本堂の額熊谷寺の三字は支那伝法沙門高泉書とあり、門の額は蓮生山の字なり、日くれかかりて筆者の名をわかたず、熊谷蓮生法師の事は人みなしる処なり、この所に終りける事委しくは縁起に見えたり、けふ一日のうちに岡部六弥太忠澄の墓をとひ、熊谷次郎直実の寺を見る事、思へば不思議なる事なるべし、又高城宮といふもあり、いかなる神なる事を知らず、六日、天気よしつとめてたつ、左右に田あり、小流あり、石橋をわたりて麦の畑ある所をゆく、此あたりより東の方に桑の垣あるを見ず、一里塚榎をこえ戸田八丁村ばら村の人家を過て右に社あり、藤花さかりなり、自是東東竹院領といへる傍示あり、長き土堤あり、これ熊谷堤なるべし、のぼりゆけば右に社あり、ゆきゆきて堤を下れば久下村の立場なり、左に寺あり、ある人家にあら川うなぎといへる札たてしあり、又堤にあがりてゆけば皀角の木多し、左右とも田なり、一里塚右榎なり左田の中にあり、をへて長き堤をゆく、又堤を下りて吹上村の立場なり・・・」
熊谷布施田旅館・蓮生寺⇒石橋・高城神社・一里塚⇒戸田八丁村ばら村(佐谷田)⇒東竹院・熊谷堤⇒久下村⇒一里塚⇒吹上と辿ります。
岡部六弥太の墓と直実の寺を1日の内に見たのは不思議な事と記しています。また、佐谷田を過ぎたあたりに藤の花が咲いていること、久下村に荒川のうなぎを料理する家があることが記されています。
英泉 (1791-1848) 「熊谷宿八丁堤景」
久下の一里塚
参考文献
- 「壬戌紀行」『新日本古典文学大系84』1993 岩波書店