現在の位置:ホーム > 熊谷文学館 > 小説 > 小林一茶>寛政三年紀行

小林一茶『寛政三年紀行』


『寛政三年紀行』は、一茶が、寛政3年(1791)326日江戸を発って、下総を巡り、418日に江戸に帰着するまでの20余日間の紀行で、412日に熊谷を訪れ、医者の三浦玄正の家に泊まっています。その際、熊谷寺を訪れ、直実と敦盛の墓を見て、「陽炎や むつましげなる つかと塚」と詠んでいます。


「熊谷本町三浦玄正やどる。

十二日 蓮生寺に参。是ハ次郎直実発心して造りし寺かとや。蓮生・敦盛並て墓の立るも又哀也。抑安元の春の此は、一門の盛りなること、朝日の升るがごとく、松柏の茂るがごとく、朝恩あく迄潤して、降雨に等しく、人望思ひのままに、秀て、蘭の露を添たるに似たり。盛なるもの必おとろへ、生る者ハ滅るのならひ、寿永の始ハ世中さわがしく、暴雷雲を響して、日月光りをうしなひ、軍慮浪を逆立て、干戈威をあらそふ。平家の運ハ霜と消え、木葉と乱て、昔ハ虎とおそれられしも、今ハ鼠の逃所にせまる。いまだ若竹の節々かよわき敦盛ハ、直実がために打れ給ひぬ。きのふハ雲の戯れに、月とかがやき花と匂ひて、詩歌管弦の遊びに夜をつぎてたのしびしも、あにはからんや、けふの今ハ須磨のあらしのあらあらしきみるめを終の敷寝として、枕の下のきりぎりす、残る歎きを母にゆづらんとは。心のうちのかなしミ、今見るやうに思はれて、そぞろに袖をしぼりぬ。是皆宿業のむくゆる報ひにて、恥をさらし、ほまれをとるも、皆一睡の夢にして、かくいふ我も則幻ならん。

陽炎や むつましげなる つかと塚」

 
 戦前の絵葉書「熊谷直実公御墓及び外郭」

参考文献

『一茶集』「寛政三年紀行」 丸山一彦・小林計一郎校注 昭和45年 集英社