現在の位置:ホーム > 熊谷文学館 > 小説 > 十方庵敬順 > 遊歴雑記

遊歴雑記(ゆうれきざっき)

『遊歴雑記』は、十方庵敬順(津田大浄:1762-1832)が、文化11年(1814)に著した紀行文です。文化9年(1812)から文政12(1829)まで、江戸を中心に房総から尾張地方に至る各地の名所・旧跡・風俗・伝説・風景等を詳細に記しています。
その中で、文化11年(1814)野原の文殊寺や、荒川の渡し・熊谷寺を訪れ、その様子を記載しています。

〇男衾郡中野原村文殊寺
「武州男衾郡中野原村大愚山文殊寺禅ハ板屋村の東北弐拾町に有 此日晴雨にして路いよいよ滑り巷陌マギラハしく 往来殊に稀なれバ 赤浜村の農家に憩ひ 案内を雇ひて野原村にいたる その道多くハ小松山又ハ広野の俗地にて 田舎路の遠けれバ 寄居にて四里といえりしかど凡五里もあるべく 午の下刻にいらちて文殊寺に詣き 此寺御朱印弐拾余石とかや 本堂ハ萱葺東向にして七間四面 本尊ハ文殊菩薩唐獅子に乗給ふ 御長弐尺余 何人の作とも知難きよし 此文殊寺の後の方に能曼寺といえる池ありて 是よりむかし出現し給ひて凡千有余年を経たり その池今ハ唯僅に形のミ残りて出現所の古跡とす 往古定めて能曼寺といえる寺院のありし処やらん 此寺その後類焼してかくの如く堂宇成就してよりも七百年に向とす 夫よりも遥久しき世より本尊なれバ 爰に安置して最早千有余年にハなるべしと住僧の物かたりき 又曰むかし此本尊夜々化導に出給ふに 乗給へる獅子の作物を食又ハ踏あらすよし 土人屡巷談し寺へ訴出しかば いつ頃の寺僧にやありけん 鋸を以て獅子の跡足を少しばかり伐しより以来 夜々本尊出給ふ事ハ止にき 然しより獅子の片足少し短くて本尊の居りよろしからずとぞ 彼住僧いか成人物にてかありけん 無慙無愧の所為乱心といふべし 因にいハん 武州崎玉郡野島村野島山浄山寺の本尊延命地蔵菩薩ハ 慈覚大師一刀三礼の作にして霊験殊にあらたに 隣里郷党に遊化し仏縁を結び給ふを 何代目の住僧にやありけん 尊像の失給ん事のあるまじきにも非ずと 地蔵の御背に釘を打鉄鎖を以てつなぎ奉りしより以来 化導を止させ給ひしが 彼僧仏罰の現報によりて苦痛悩乱し 万人に飽れ業を曝して死「しけるとや 今此寺の住持の獅子の跡足を伐しも 大同小異にして争か現報を得ざらんや 仏工を業とする者すら 聖者の作仏ハ彫刀を補ハず恐るべし愧べし」
寄居の赤浜から、野原の文殊寺を訪れています。東向きの萱葺本堂の後方にはかつて能曼寺という寺があったこと、本尊の文殊菩薩が乗る獅子が夜な夜な抜け出し、周囲の畑を荒らしていたことから、その時の住職が獅子の後ろ脚を鋸で切ったところ、出歩かなくなったことが記されています。

再建された明治期の文殊寺本堂
「一 本堂に文殊寺と横に認めし額ハ海朝の筆なり 同じく右の方に釣鐘堂左に手水鉢 此後に古樹のしだれ桜あり 花ハ八重にや一重ににや 春の頃は嘸思ハる片鄙ハ行人稀なれバ風聞する者なし
一 中門にハ木彫の獅子あり 横に左向に蹲踞て顔面を前にし口を半明て左の手を揚たる骨相は活るが如し 大さ四尺ばかり色ハ赤黒し古作と見ゆ 又左の方にハ大黒天の像をすえたり 御長横に三尺ばかり 木彫をあらハして色黒し 此像ハ厨子形の箱に入 前に銅網を張たり 故ある像にや 斯中門に獅子と大黒とを双方にすえたるハ珍敷一風といふべし
一 中門の外右側に三間弐間の堂あり 中央ハ文殊大士をすへ 左右ハ拾六善神及び十王三途川の婆々などをすへたり 是より表門まで半町余 左右の行樹ハ大杉にして 松虫といふものの声ハ蝉の如く 最森々として別境にあそぶに似たり 惜い哉片土にして参詣なき事を
一 仁王門四間ありて仁王尊も馴合て尤よし 三峯山の如き痩て勢なく不格好の仁王を見たる事なし 下作といハん歟 此仁王門に獅子窟と書し横三字の額を上たり 是より真正面に本堂を見込事凡壱町余あるべし 斯て門前の食店に憩ひて温飩を昼食とし 此野原の村高を聞に 書上にハ高百八拾三石なれども六百石にも過たり 故に上中下の野原とわかれて 文殊寺ハ中野原なりと答ふ 此処茶店四五軒も建集て川越松山熊谷等への往還なりとぞ 是より熊谷の駅へ壱里とあれバ 時ハ羊の上刻たり 最こころ安し 殊に道を堰ず先を急がねバ 緩々休らひて気儘に独歩し 熊谷の駅へと心さしけり」
本堂・中門・仁王門の説明です。本堂と中門は、文政11年(1828)火災にあい現存していないことから、建物の様子を知ることのできる記述となっています。本堂右に釣鐘堂と手水鉢があり、その後ろに古樹のしだれ桜があり、中門には獅子と大黒天が設置されていたこと、中門右側にはお堂があり文殊菩薩・十王等が設置されていたことがわかります。仁王門の仁王像は下作としています。中門脇のお堂は観音堂と思われ、現在の本堂は昭和33年に観音堂の一部を転用して再建されたもので、格天井の格子絵にその一部を見る事ができます。

明治期の文殊寺仁王門

荒川わたし場の光景

「一 武州男衾郡荒川の舟わたしは、足立郡との境にして中野原村より北にあたり、貮拾餘町の中路にあり、是早瀬の渡し又は戸田川等の上也、此道筋平に熊谷の驛へ通ふ往還とぞ、既にあゆむともなく河原の此方にいたれば、川縁にそひて懸はなれし芝原に、恰も廣野に似て夏草の花のこころままに何方此方に咲し風情の優に面白く、しばし行て眺望するに風色又一品なり、頓て舟に乗移り漕出し見れば川の幅尤廣し、左のみ深からで水底ありありと見へながらも中流の水勢は渦巻が如く、その昔堂々たるも理なる哉、水源は秩父の奥なる山澗より流れ出、江戸千住の大橋下までの間山に習ひて溶曲り河丈凡五十六里、ところどころ谷川の水數百千會流し足立郡にいたりて、其大河となり川幅廣き事凡貮町その水尤淡く清潔又類ひなし、既に渉り越て北側の川原に上り振返り見れば、都て川を挟みて南北の五六町の間、只渺茫と取放し樹木なく人家なし、風色甚よしといへどもところどころに蛇籠をふせし様子水響のすさましきは夕幕といひ凄きが如し、此川側より三町にして大横町へ入熊谷寺の前にぞ出ぬ、兼て聞およぶ北側中程なる鯨井久右衛門方へ止宿しけり、二階に泊り呉よとありしかど、老人の上下も憂手水場の遠きは不可なりといへば、しからばこなたへと誘引きて下座敷の見通しにはあらて折曲て隠居家とも覚しき席へ案内せり、しかるに庫普請ありて坪の内は庭の模様はなくて木の切又は鉋屑は掃寄もせで尾籠に散乱して、芥屑の中にあるがごとく更に心能からず、斯て湯殿に凉はやと縁先に安座すれば、蚊夥しくて暫時も扇子を休かたく、依てむだ書は能とは思はされど懐紙に少し前書して根押に張下置たり、
普請場は蚊柱もたつゆふべかな 以風」
荒川を村岡の渡しで渡り、熊谷の熊谷寺門前の鯨井久右衛門の宿に泊まります。荒川の河川敷から南側を見ると樹木・人家は無くて景色が良く、川原には水流から護岸する蛇籠が設置されていると記しています。熊谷で泊まる鯨井久右衛門は、本町二丁目に所在したもと本陣です。竹井家と2軒あった本陣は、享保8年(1722)からは竹井家だけになり、旅館を営んでいたようです。ただし、1階を希望したところ隠居所のようなところに通され、しかも庭は工事中で、風呂上がりに縁側で涼んでいると蚊が沢山いて、団扇であおぎ続けなければならず、その時詠んだ句も記載されています。

熊谷市指定有形民俗文化財「村岡の渡し船」

熊谷寺蓮生法師の詠草

「一 武州榛澤郡熊谷寺浄土ハ、熊谷の驛中程にあり、此地元来は次郎直実が出生せし舊地なれば、苗字を熊谷と名乗、死後又一寺となして熊谷寺となづけしもの也、彼遠州藤枝の驛中程北側なる熊谷山蓮生寺真言は、直実出家して後みやこへ登る刻、路用盡て旅行のなりがたきまま、或當家に案内して、十返の念仏を質物として、烏目貮貫文を無心し、後又あづまへ下向の序、件の家へ立寄て銭貮貫文を返納し、十返の念仏を請戻したるの舊跡なり、されば熊谷直実は、頼朝公に仕えて戦場の功名廣々なりといへども、梶原父子の佞奸を疎み、又その身吃辨にして右幕下の御前にいひ負たるを無念に思ひ、且は生長を頼みし世伜を殺せしに、無明の夢覚つつ、津の戸の三郎がをしへによりて、源空上人の弟子となり、法力房蓮生とあらためし刻、自筆にてしたためし一首の詠歌あり。
いにしへの 鎧にかはる 紙子には 風の射矢も とをらざりけり
真実に名刹をはなれ、武門をすてし拾家、葉欲のこころ根の程殊勝いふばかりなし、右の詠草今熊谷寺の什寶たり、去壬申年本所回向院におひて、六十餘日熊谷寺出張開帳ありし節、目前に見たりき、手跡拙なからず、気性筆勢にあらはれて、在世のむかし慕しくぞ思はる、紙は岩城の如きものを半分に切て認めたれば大さ色紙の如し、さればくまがへの驛なる、熊谷寺は市中にありながら、町並みを五七間もしざりて表門あり、門前よりの見込は、恰も東武麹町八丁目心法寺の様子に能似たり、本堂は往還の方へ向て八間四面、常念仏の聲は谷響にひびきて最殊勝なり、當寺の門前より南の横町を入て、荒川のわたしまで凡七八町、又荒川のわたしを越て、南の方野原の文殊寺まで凡貮拾六七丁、平地にして行路の風景甚よし、又野わら村より南の方松山の驛まで二里、川越まで六里といえり、又熊谷寺の脇なる北横町を真直にゆく事三里にして、目沼の聖天尊にいたる、此路又平坦にして村邑あり、耕地あり、行程の景望おもしろく、目に遠近の山々を眺望して風色いはん方なく、既目沼には酒縷、餉店、旅籠屋等有て在中の都會といふべし、目沼の風土、聖天尊の事は後巻に譲りて委しくあらはすべし。」
熊谷寺を訪れ、直実・連生の事績を紹介しており、直実が出家した際に、「いにしへの 鎧にかはる 紙子には 風の射矢も とをらざりけり」と詠んだと記しています。また、門前の様子が麹町の心法寺に似ていること、妻沼は聖天尊があり、飲食店や旅館があり都会であり、改めて紹介する旨が書かれています。

木曽路名所図会(1805)に描かれた熊谷寺