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この碑は、大正8年6月に建てられた、道閑堀開鑿の経緯を記したものです。撰文は埼玉県知事岡田忠彦、書は斎藤豊、石工は伊藤敬助。 道閑掘は、利根川水系の排水路で、元は葛和田で利根川に注いでいましたが、利根川が増水すると排水が困難であったことから、大正期に排水先を福川へと変更しました 碑文には、「道閑堀は、備前渠から、善島・葛和田・俵瀬を経て利根川に注ぐ水路であるが、水路は曲がり、砂泥のため大雨の度に氾濫していた。大正4年に、道閑堀水利組合は、新たに開渠することを決め、大正6年に工費7,300余円、数千人によって、新たな堀を竣工した。これにより、災害は起こらなくなり収穫は倍増したことから、水利組合員相談の上、この経緯を後世に伝えるためこの碑を建設した。」と記されています。
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道閑堀開鑿碑 内務大臣正四位勲二等床次竹次郎篆額 道閑堀発源於大里郡妻与備前渠合排泄汗水経善島・葛和田至俵瀬 注利根川、然水路紆曲沙泥為塞毎逢霖雨氾濫横溢為害不鮮、昔時忍 藩有憂之毎歳修理随治随争廃藩後、其事久止而利根川暴溢之民胥謀結 社従事浚渫、大里郡長管理之百方経営未能除去其害、於是新開鑿溝 渠之議起而機未熟茬苒歴年、大正四年六月二十八日建設道閑堀水利 組合欲新開渠、於日向葛和田以注道閑堀水於福川乃拳、小池甲子次 郎・内田善之助於臨時委員与常設委員江守右一等共専当時、翌季一 月得官許官又給金若干助其資内務省命吏董役、庶民子来皆楽趨亡翌 年三月功竣費財七千三百余円、用工数千人、自是厥後災害絶述、庶 民安堵収穫倍蓰前日士女族倪挙有喜色、自非聖世之鴻沢何以至此哉 頃者水利組合員相議欲建碑勒、其事以之不朽来講余文嗟乎余承之 於本県誼不可辞乃述其顛末告後人 大正八年六月 埼玉県知事正五位勲四等 岡田忠彦撰 省菴 斎藤 豊書 伊藤敬助鐫 |
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