記念碑
吉岡中学校の駐車場脇に建つ記念碑を紹介します。標題にある吉岡分校は埼玉県立熊谷高等学校の定時制校として昭和24年から昭和57年まで設置されていました。 戦後の混乱期、教育制度は大きく変わり、新制中学校の卒業生が直ちに社会に押し出される状況があり、青少年の高等教育は地域の問題としても取り組まれていました。県教育委員会の支援を受け当時の吉岡村・御正村・小原村・市田村・吉見村の5か村組合での設立に漕ぎつけました。戦後復興の財政難の中、設置費・維持費は五か村の組合、教員等の人件費は県費の負担でした。なお、熊谷高校の分校は昭和23年までに熊谷(中心校)・妻沼・寄居・深谷が開校しています。 戦後の教育再編期にあった少年たちの高等教育を支援するという地域の高い意識と援助があったことがうかがわれます。当時、小原村長から県教育委員長になっていた小林倭子(現熊谷市小江川出身)の働きも大きかったと思われます。吉岡分校では閉校までの33年間に520名余りの青少年を送り出しています。 なお、熊谷市プラネタリウム館には、吉岡分校で使われていた当時としては最新式の「屈折式赤道儀」、口径75mmの望遠鏡(昭和36年頃製造)が飾られていました。現在閉館中ですが再オープン時にはみられるかもしれません。 参考文献 『埼玉県教育史』 吉沢三郎 2001『平々凡々わが人生』 文芸社 著者は熊谷出身 昭和26~34年まで吉岡分校で教鞭をとっていた。 板橋文夫 2013「戦後初期勤労青少年教育の原像―埼玉県定時制高等学校を中心として―」東邦大学教養紀要 第45号
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