本碑は、石坂養平の古稀祝記念に建立されたものです。当初市内宮前町に設置されていましたが、関連者の高齢化が進み管理が行き届かないことから、平成19年3月31日に石坂家の菩提寺である集福寺に移転しました。 碑文には、「寿碑 美わしき山河の国 優れたる民族の魂 われここに生を享けて無限の 愛を感じ 悦ばしき知識を護たり 芸術の甘美 哲学の玄妙 科学の真理 思想の自由 我が参入をほりにし 殿堂なりされどわれ 不敏にしてその門牆 を窺うにすぎざりき 七十年のわが行履を顧るとき 一切は崩れ去って僅かに創造の 痕跡を止むるのみ、なさけ深き かなわが友われを咎めず、われ を頌(たた)えて寿碑を恵みぬ。 昭和三十一年十一月 石坂養平書」 裏面には「昭和三十一年十一月二十六日建立 石坂養平先生寿碑建設委員会」と刻まれています。 石坂養平(1885-1969):日本の文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員。 埼玉県大里郡中奈良村(現在の熊谷市)に生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て明治35年(1902)に第二高等学校に進学、明治39年(1906)に東京帝国大学理学部に進学したが中退、明治43年(1910)に同文科大学哲学科に再入学した。在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。 大正4年(1915)父の死にともない奈良村に帰郷し、地域の名士として奈良村農会長や同信用販売購買組合長、大里郡乾繭販売利用組合長や同農会長や同養蚕業組合連合会長などを歴任。その一方で評論活動を続け大正8年(1919)には「有島武郎論」を発表して作家の有島武郎との間で論戦を展開。また、熊谷地域で文芸雑誌『曙光』が出版された際には、その後援者になるなど地域青年の文化育成にも取り組んだ。 大正9年(1920)立憲政友会から埼玉県議会議員選挙に出馬し当選、昭和3年(1928)第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。さらに第19回から第21回まで連続当選を果たした。政界に進出する一方で実業界でも活動し、武州銀行監査役、熊谷製糸株式会社取締役、昭和18年(1943)からは埼玉銀行取締役などの要職を務めた。
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