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記念碑



石坂先生文章碑

本碑は、昭和12年4月に埼玉県曙光会により建てられたもので、碑影には同会顧問山口正八撰・誌による文章が刻まれています。

「人生への愛は孤独より生る」という石坂養平の結びの言葉が有名な碑です。

碑文には「今日の青年はどうしても政治、経済、社会の方面に研鑽努力の歩を進めなければならぬが、それと同時に思索を愛し内省に励みて厳粛なる人生の真味に徹する沈潜の心を養はなければならぬ。それは人生にのみ還れと云ふのではない。社会の表面に表出すると同時に人生の妙機に参ずることを忘却するなといふ意味だ。私は過日南信旅行の際舟航二十余里の天竜川下りをやったが、南画の武稜桃源図に見るような幾多の光景を目撃した。そして、古来深山大沢から偉人の出た所以を深く考へずにいられなかった。我々現代人は一面ラジオを聴きキネマを観て文化の恵沢を充分利用すると共に、他面静寂なる原始生活に還り、天籟地響を通じて人生の奥龕に参ずる多くの機会を把握すべきではないか。多くの公共団体や政治団体に参加して社会の騒音裡に生息する私は常に孤独静寂を愛する。今夏或る講演の冒頭に於て孤独であることをいくらか好むやうでなければ新しい思想は得られるものではないといふバートランドラッセルの言葉を引用したことがある。良寛和尚が、世の中にまじらぬとにあらねどもひとりあそびわれはまされると、歌ったのはひとしく人生に徹する厳粛な孤独への愛の心境を道破したものではないか。省察思索内観沈潜すべてかうした人生の真趣に参ずべき行程は孤独に静寂に対する熱意をもってはじまる。人生への愛は孤独より生る」と刻まれています。

石坂養平(1885-1969):文芸評論家、政治家。衆議院議員、埼玉県議会議員。

埼玉県大里郡中奈良村(現在の熊谷市)に生まれる。幡羅尋常小学校、熊谷中学校を経て明治35年(1902)に第二高等学校に進学、明治39年(1906)に東京帝国大学理学部に進学したが中退、明治43年(1910)に同文科大学哲学科に再入学した。在学時から文芸評論家として活動を始め、「新自然主義の誕生」や「鈴木三重吉論」などの文学論を発表して中央文壇に認められた。

大正4年(1915)父の死にともない奈良村に帰郷し、地域の名士として奈良村農会長や同信用販売購買組合長、大里郡乾繭販売利用組合長や同農会長や同養蚕業組合連合会長などを歴任。その一方で評論活動を続け大正8年(1919)には「有島武郎論」を発表して作家の有島武郎との間で論戦を展開。また、熊谷地域で文芸雑誌『曙光』が出版された際には、その後援者になるなど地域青年の文化育成にも取り組んだ。

大正9年(1920)立憲政友会から埼玉県議会議員選挙に出馬し当選、昭和3年(1928)第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。さらに第19回から第21回まで連続当選を果たした。政界に進出する一方で実業界でも活動し、武州銀行監査役、熊谷製糸株式会社取締役、昭和18年(1943)からは埼玉銀行取締役などの要職を務めた。

山口平八(1899-1976):文化運動家。深谷町生まれ。日本ユネスコ協会連盟中央委員、県ユネスコ連盟長、県文化財専門調査委員、県文化団体連合会副会長、北武蔵文化連盟理事長等を歴任。地域の文化活動の推進に貢献した。

所在地 中奈良(常楽寺)
種別 記念碑
造立年 昭和12年(1937)