句碑・歌碑
「我も其 阿弥陀笠きて 咲く花に うしろハ見せぬ 熊谷さくら」 この歌は、三陀羅法師が文化5年(1808)3月13日熊谷を訪れ、漢学者青木金山主催の石上寺で開催された書画会に、窪天民、浦上春琴、谷文一、釧雲泉らと共に臨席した際に詠んだもので、熊谷直実の歌詠「浄土にも剛のものとやさたすらん。西に向ひてうしろ見せねば」に拠ったものです。 「阿」の字は、後刻。林有章が、『名勝熊谷桜』の中で「此碑いたゝき折れて阿字を失い石上寺にありければ之を補ひ再び建てぬ 明治壬寅春 幽嶂 我も亦其笠借らん花七日」と記しています。 三陀羅法師(1731-1814):狂歌師。江戸神田に住む。唐衣橘洲の門下といわれ、千秋側の主宰者となって一派をひきいた。姓は赤松、のち清野。名は正恒。別号に一寸一葉、千秋庵。編著に『狂歌三十六歌仙』『狂歌三陀羅かすみ』など。 青木金山(1781-1818):漢学者。佐渡に生まれ、江戸に出て儒学者山本北山(1752-1812)に学び、亀田鵬斉(1752-1826)、大窪詩仏(1767-1837)らと交わる。文化年間熊谷を訪れ、諸生を教授した。 浦上春琴(1779-1846):江戸時代後期の文人画家。幼少の頃より父玉堂より書画の手ほどきを受ける。山水画、花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風で、中林竹洞や山本梅逸らと名声を競った。 谷文一(1786-1818):江戸時代後期の日本画家。谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが三十代で夭折。号は痴斎、名を文一郎、通称は権太郎と称した。 釧雲泉(1759-1811):江戸時代後期の南画家。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画人として知られる。
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