本碑は、昭和16年(1941)4月10日に、大字久下字荊原が北足立郡吹上町に、それ以外の地域は熊谷市に編入され消滅したことを記念して建てられたものです。高198.7cm、幅102.5cm。 久下村は、明治22年(1889)4月1日に町村制施行に伴い、新川村・久下村が合併し成立しました。 碑文には「村会は4月1日を期し本村の大部分を熊谷市へ一部荊原を地理的に且日常の交際を考慮して北足立郡吹上町へ分割編入を議決同年4月10日其筋の許可を得て発展的解散を遂げたり茲の其概要を刻して後日の記念とす」と刻まれています。 撰:黒澤定四郎 書:東海 舞原諶一 黒澤定四郎:久下村長 舞原諶一:(1883-1953)秦村(現熊谷市)出身。奥原晴湖門人。舞原家は画家3代続いた家で、祖父耕雲は寺門静軒(1796-1868)に師事、書を中村雪城、画を山崎薫■に学ぶ。父松潭は、画を耕雲、書を巷菱潭に学び、奥原静湖と親交を結ぶ。諶一は、幼少より奥原静湖の教えを受け晴雲と号したが、静湖が晩年になって「東海」の号に飽きたといわれるのを聞き、許しを得て舞原東海と改める。その後東海は、実業界に入り、熊谷製糸の常務取締役、秦村村長、信用組合長等の要職に就き、余暇を書画の道に親しんだ。
|
|