記念碑
大幡村は、明治22年(1889)4月1日の 町村制施行に伴い、大里郡代村・原島村、幡羅郡柿沼村・新島村が合併し、両郡の最初の文字をとって大幡村が成立しました。本碑は、昭和7年(1932)4月1日に、大幡村が熊谷町に編入され消滅したことを記念して同年3月31日に建てられたものです。 石坂養平(1885-1969):奈良村(現熊谷市)出身の文芸評論家・政治家。大正4年(1915)の「芸術と哲学との間」で注目され、「文章世界」などに執筆。一方政界に進出し、昭和3年(1928)衆議院議員(当選4回,日本進歩党)、戦後は埼玉県公安委員長、埼玉県文化財保護審議委員、埼玉県文化団体連合会長などの要職に就く。 清水郊朔(1875-■):市内原島生まれの政治家。明治44年(1911)~大正5年(1916)、大正15年(1926)~昭和7年(1932)大幡村村長を務める。信用組合を結成して村の資力を増進した。 舞原譔一(1883-1953):秦村(現熊谷市)出身。奥原晴湖門人。舞原家は画家3代続いた家で、祖父耕雲は寺門静軒(1796-1868)に師事、書を中村雪城、画を山崎薫■に学ぶ。父松潭は、画を耕雲、書を巷菱潭に学び、奥原静湖と親交を結ぶ。諶一は、幼少より奥原静湖の教えを受け晴雲と号したが、静湖が晩年になって「東海」の号に飽きたといわれるのを聞き、許しを得て舞原東海と改める。その後東海は、実業界に入り、熊谷製糸の常務取締役、秦村村長、信用組合長等の要職に就き、余暇を書画の道に親しんだ。
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