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芭蕉句碑 |
「稲妻や 闇のかた行 五位の声」
本句は、芭蕉が元禄7年(1694)猿雖亭で詠んだものと推定されています。五位は五位鷺(さぎ)のことで、夜行性があり、夕方になると不気味な声を出して飛ぶ特性があります。
この句碑は、文化9年(1812)7月、地元の歌人(五翁(〜1820)・角浪・可良久(〜1847)・五渡(1753-1826)・五楼)により建立されたものです。五翁は初代五渡で、妻沼の歌人。薬種商大和屋の主で本名定吉。俳諧は、初め加舎白雄門、後に建部巣兆に学ぶ。60歳の時に息子に俳号を譲り、五翁と号しました。五渡は初代五渡の子理兵衛。五桜は、弥藤吾村の人。修験藤原原山宝蔵院の二十三世。可良久は幡羅郡善ヶ島村の歌人の羽鳥又左衛門。
裏面に、巣兆による撰文「むさし國長井庄聖天宮に建る芭蕉翁稲妻の句、この石ふみや、太田うし南畝子の活筆を需て書しむる處なり・・・」と刻まれています。巣兆は、俳人建部巣兆(1761-1814)のことで、加舎白雄(俳人:1738-1791)の門人で、長翠(1750-1813)、道彦(-1842)、保吉、碩布(1750-1843)、春鴻(1733-1802)、葛三(1762-1818)、虎杖(1740-1803)とともに白雄八弟の一人で、成美・道彦とともに江戸の三大家といわれた人物です。江戸日本橋本石町に生まれ、小林一茶と交友があり、妻沼を訪れた際に「五月雨や まくら借たる 桑の奥」『曽波可理』という句を残しています。
書は、太田蜀山人です。この太田蜀山人は、太田南畝(1749-1823)という狂歌師で、江戸牛込に生まれています。寛政6年(1794年)、湯島聖堂の学問吟味に合格し、各地を赴任し紀行文・句集を刊行しています。
このように、本句碑は、地元と江戸の俳人・歌人・狂歌師のコラボにより建立されたもので、近世文化人の交流を物語る碑として貴重なものです。
所在地 |
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妻沼1151(歓喜院) |
種別 |
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句碑 |
造立年 |
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文化9年(1812年) |
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