常設展示室/石造物の部屋


聖泉湧出碑

 本碑は、延享5年(1748)造立されたもので、高さ93cmを測る砂岩製です。
裏面には、寛保の大洪水の際、時の聖天山院主英雄が錫杖を持って大地を突くと聖泉が湧出し、飢渇にあえぐ民衆を救ったと記載されています。
 寛保の洪水とは、寛保2年(1742)8月1日に発生した利根川の氾濫のことで、近世最大の水害と言われています。この年が戌年であったことから「戌の満水」とも呼ばれています。利根川上流・千曲川流域では、7月27日から降り出した雨が8月2日まで降り続き、水位の上昇は、平常より2mから場所によっては6mにも及んだことが記録されています。

 この時歓喜院では、ちょうど大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になりました。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われています。

 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めています。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっています。

 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られています。

所在地 妻沼1151(妻沼歓喜院)
種別 湧泉碑
造立年 延享5年(1748年)

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