湧泉碑
聖泉湧出碑 利根川畔 妻沼勝郷 魚名後胤 眞盛草創 観音垂跡 聖天霊場 院号歓喜 邦国武蔵 赤城霞色 映扶桑賜 輝宮瓊殿 横虹彩来 彫刻八面 壮観十方 工匠妙手 貴賎眺望 陳禴點燭 誦経供香 □□精進 消除余映 寛保二歳 壬戌之秋 久霖蕩陸 田園就荒 暴嵐烈々 洪水湯々 塡溝塞壑 懐山裹岡 井泥不食 旦暮絶糧 神徳不測 感応無量 社辺奇異 清泉沸揚 上忽平降 吏走賜梁 止飢止渇 可茹可□ 殆穫全命 永記難忘 信 立碑 後昆貽謀 求庶幾者 国家殷昌 九族親睦 君臣和親 法門寧静 祝奇堅強 万民吉利 氏子栄□ 黍稷豊稔 桑蠺増昌 風雨齎調 火盛鎭防 干戈不起 禮楽呈祥 青龍衛護 紫鳳翺翔 皇国鞏固 台齢旡彊 <読み下し文>
利根川の畔 妻沼の勝郷 魚名の後胤 眞盛草創せる 観音の垂跡(すいじゃく)
聖天の霊場 院号は歓喜なり 邦国は武蔵 赤城の霞色 扶桑に映じ賜ふ
輝宮瓊殿(てるみやけいでん) 虹彩を横たふ 彫刻八面 壮観十方 工匠の妙手なり
貴賎眺望し 祭を陳べ燭を點じ 経を誦し香を供ふや 精神は勇溢し 余央を消除す
寛保二歳 壬戌の秋 久霖(きゅうりん)陸を蕩(つつ)み 田園荒に就く 暴嵐烈々
洪水湯々 溝を塡(うず)め壑を塞ぎ 山を懐み岡を裹(つつ)む 井は泥して食(くら)へず 日は暮れて糧を絶つ
神徳測られず 感応は量無し 社辺の奇異や 清泉沸揚し 上は忽(たちま)ち降を平(おさ)め
吏は走て梁を賜ふ 飢を止め渇を止め 茹(くら)う可く(飲む)可し 殆く命を全するを穫たり 永く忘れ難きを記すべく
信(徒)碑を立てて 後昆(こうこん)に謀を貽(のこ)す
求庶幾(こひねが)はくは 国家殷昌 九族親睦
君臣和親 法門寧静 祝奇堅強 万民吉利 氏子栄(進)
黍稷豊稔 桑蚕増昌 風雨斉調 火盛鎮防 干戈(かんか)不起
禮楽呈祥 青龍衛護 紫鳳翺翔 皇国鞏固(きょうこ) 台齢旡彊(むきゅう)たらんことを
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本碑は、延享5年(1748)造立されたもので、高さ93cmを測る砂岩製です。 この時歓喜院では、ちょうど大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になりました。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われています。 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めています。妻沼周辺の工事は岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっています。 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られています。
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