本碑は、延享5年(1748)造立されたもので、高さ93cmを測る砂岩製です。 この時歓喜院では、ちょうど大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になりました。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われています。 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めています。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっています。 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られています。
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