戸田英龍(とだえいりゅう)(1861-1916) 教育者
上江袋の能泉寺住職。文久元年(1861)武州川越の戸田家の三男として生まれる。明治5年(1872)仏門に入り、高野山で修行し、高野山派の太田村能護寺の末寺、江袋山地蔵院能泉寺の住職となる。その後伊勢・豊後等に赴き、その地で著名な儒者に漢学を学ぶ。明治24年(1891)帰坊し、本堂を塾舎として、近村の子弟に学問を教えた。
師は金品に淡白で、授業料は一切とらず、門弟たちは、節句、歳暮にわずかな物を届ける程度であった。たまたま授業納めのすまないうちに歳暮を届けたところ「お前はわしの教えることに不服でもあるのか、歳暮というものは授業納めがすんでから持ってくるものだ」といって受け取らないので、やむを得ず持ち帰って、授業納めがすんでから持っていたところ、機嫌よく受けとったという話が伝わっている。
また、身なりは無頓着で、常に墨染木綿の衣を着ており、殺生戒を尊奉し、のみ一匹たりとも殺さず、のみやしらみが出ると、庭に出て、念仏を唱えながら摘まみだしたと言われている。
大正5年(1916)病のため55歳で逝去する。
門弟には、増田弥七郎(1884-1969)、井田友平(1889-1965)らがいる。