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宮崎利秀(みやざきとしひで)(1919−1982)


宮崎利秀句碑(妻沼:大我井神社)

文芸家、教師。大正8年(1919)伊勢崎市に生まれ、すぐに妻沼町錦町(現熊谷市妻沼)に転居。昭和12年(1937)熊谷中学校(現県立熊谷高校)を卒業、横浜高等工業(現横浜国立大学工学部)を経て、17年(1942)東京工業大学機械工学科を卒業。熊谷中学校の同級生には、金子兜太(1919-2018)がいた。学生時代を通して野球部のエースで四番を打つ主将を務めた。
卒業後は、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務し、満州派遣中に敗戦を迎える。

戦後、進駐軍東部88部隊に、英語通訳として勤務する傍ら、『東京ジョー』を出版。その後、英語教師として、上溝女子高校、橋本農学校、桜美林学園、田名中学に勤めたが、リウマチに罹患し、昭和26年(1951)に帰郷し、母校の熊谷高校教師となり、翌年市内大麻生に転居した。熊谷高校勤務の最初の一年間は肩以上に腕が上がらず、洋服を着ることができず着物袴で登校したため、生徒から「ロングスカート」というあだ名を付けられた。
熊谷高校で宮崎を教えた直木賞作家杉森久英の『黄色のバット』の、部長兼監督の「ロング先生」のモデルは、宮崎利秀とされている。
昭和32年(1957)浦和高校に転任し、俳誌『あざみ』初代編集長をつとめ、『俳句』『国文学』等にエッセイ、論文を発表する。

また、「北むさし文化会」を設立し、会長として郷土文化誌『きたむさし』を主宰。会員2000名、代表的な著書に『坊ちゃん先生と熊谷』『田舎教師の周辺』『燕子花の人』などがある。
昭和57年(198211日、62歳で急逝。妻沼瑞林寺に葬られる。
金子兜太との交流の一端を示すものとして次の句が伝わっている。
・春惜しむ兜太と俳句の話はせず
・兜太がそこに夏痩せ知らぬ男ぶり
・吾も肌脱ぎ兜太裸にて対座
・兜太夫人団扇の風を絶やさずよ
・兜太より賀状体調いかがとのみ

昭和58年(19833月、宮崎利秀句碑建立委員会により、妻沼の大我井神社境内に句碑「下駄ばきの 一教師たり 稲の花」が造立されている。

参考文献

  • 1982『熊谷人物事典』日下部朝一郎
  • 2021「北武蔵のふたり」『文芸埼玉』第105号 米山長七郎