「弥藤吾」ーやとうごー |
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原の郷永井庄忍領に属す。正保のころは佐野兵右衛門、牛込三右衛門、中根但馬守、伊奈五左衛門らの知行であったが、その後牛込伊奈両氏の分上地して蜂屋、岡野、遠山三家の知行となり、以来佐野、中野、蜂屋、岡野、遠山等五氏の子孫が世襲していた。なお外に天領の分については代官支配となった。
弥藤吾は、近世までは弥藤五と表記される。
享保17年(1732)に成立した妻沼聖天山の縁起である「歓喜院本聖天宮縁起」には、斎藤五の子が弥藤五を名乗りその地を治めたとされる。
斎藤五は、平安時代末期の武将・斎藤実盛の子どもで、弟の斎藤六とともに『平家物語』等で平氏最後の嫡子とされる平六代に最後まで仕えた人物として描かれている。五、六は、五郎、六郎の略称であろう。『平家物語』等の流布とともに、父の実盛とともに全国的に知られるようになり、各地にゆかりの寺院や史跡が数多く建てられている。弥藤吾にある実盛塚は、父実盛の遺物を埋納するために、斎藤五・六兄弟が築いたとの伝承が残る。
「弥藤五」の名称は、16世紀末には古文書に見えるので(天正19年(1591)3月「伊奈忠次忍領預地書立」(長崎県片山家文書)」)、これ以前にはこの名称があったことが確認できる。「歓喜院本聖天宮縁起」の真偽は不明であるが、弥藤吾に住む中世・近世の人々は、斎藤五の子のゆかりの地であることを意識していたであろう。
※斎藤実盛、斎藤五・六兄弟については、『熊谷市史通史編上巻原始・古代・中世』第6章第4節参照
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