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妻沼・弥藤吾の起源めぬま・やとうごのきげんー  

妻沼についての詳細は、前述のとおり隣接する男沼に対しての名称で、そのルーツは西に男体様を拝し、東に女体様を拝した大きな沼地を控え、その付近の自然堤防上の高台に広大な大我井の杜と称する平地林があり、ここに一つのお社があった。妻沼聖天の縁起によれば、昔伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の神が鎮座した地であると伝えられている。
このあたりは、往古より秩父山塊と両毛三山からの扇状地の最前端部にあたり、しかも妻沼低地と称される平坦地に位置する平野で、往古より利根川の浸水地域でもあり、しばしば洪水の被害が発生していた。このような地形的条件の中にあって、大我井の地は周辺を芝川と称する川が舌状に囲み、その高さは4〜5mの台地となって、正に要害の地形的様相を示していた。この良地に治承年間、斉藤別当実盛聖天堂に歓喜尊天を祀り、長井庄の総鎮守としたと伝えられる。
ただ、この天下の要害としての条件を具備した豊かな森に囲まれた高台の地に、なぜ当時長井庄の首邑としての城館を設けなかったのか、私的には理解しにくい。しかも他の多くの場合このような地は神社仏閣など建立し、むしろ聖地として讃え崇拝している。
現にある長井城館祉は、西城前長安寺沼付近・往昔蛇行する福川右岸・今の奈良川の北方の低地にあったとして建碑した。そのことはそれでいい、けだし不可解である。一つは福川庄の所在、また大我井の杜の中核、妻沼小学校庭拡張の際に、経筒はじめ数多くの貴重な埋蔵品が出土している妻沼経塚(昭和32年発掘された4基の経塚)のこと。さらに、聖天様に極めて関連深い、幡羅の大殿と言われた後の成田氏が、斎藤氏の着任に際して直ちに城を明け渡して東の方面成田の地に転出した経緯など。もっと知りたいものである。
妻沼の地名については重複があるので、次の男沼の稿に移項して説明を加えるが、妻沼は長井斉藤氏とそれ以降、聖天宮縁起を始め諸々の歴史文献に縷々記述され、多方面にわたって研究されているが、今後さらに研究調査を加えてより確かなものとしたい。ここでは簡単な経緯のみ記したい。
明治維新以降は岩鼻県、入間県、熊谷県などを経て埼玉県の管轄となり、明治17年2村連合して妻沼連合村となる。同22年の町村制施行時は弥藤吾村として存続、同29年の郡統廃合時には大里郡に所属した。大正2年両者合併して旧妻沼町に昇格させた。
参考『埼玉縣大里郡郷土史』・『埼玉県地名辞典』ほか


昭和30年、1町4カ村が合併して新生「妻沼町」が誕生しました。
(画像の町村をクリックすると説明ページに移動します。)

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