第48話「竹ノ内」ーたけのうちー |
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「竹ノ内」の地名は、旧江南町の南に位置する高根山より続く尾根とその谷合の一つで、小江川地内にあります。高根山の裾を通るいくつかの旧道のうち滑川町から旧江南町へ至る茅場ー符ノ内あるいは池代の道筋は、かつては主要な峠越の街道だったと考えられます。
峠は、曲りくねる撓んだ道を越える「たわごえ」から変化した語で、地形による地名といわれます。峠を越えてきた所にある谷に抱かれた場所であったことから「峠の内」となり「たうげのうち→たけのうち」となったと考えられます。
峠は村落の内と外の境界の地となるだけでなく、人馬・文物の出入する交通の要衝でもありました。
また反面では、疫病や災害などの凶事を塞ぎ止めたり、そこでケガレを祓い落してやって来ることが求められました。このような場所では、自然と祭儀を行い供物を手向けるところとなりました。
一説では、この「手向け」が峠の源義であるともいいます。尾根を越え平坦地へ至る道(峠)は自然にできた原始から人の通う道であり、祭祀の場でもありました。
峠の遺跡からは「人形・馬形」等の形代や、幣帛に使われた玉類・鏡・刀槍等の武器・壷・甕が見つかることがあります。
また、峠には、石造物・寺院神社等の信仰の生きている文化財も数多く残されています。峠を越えるとは、ケガレを清め、快適になることであり、峠の茶屋で一休みという旅のスタイルは、生理的にも峠の歴史的性格からも意味のあることです。
大字小江川字竹ノ内の旧道の場合、かつて高根神社が在ったと伝えられています。社伝によると江戸時代享保年間に現在の字山中に遷座したとされています。これより以前のいつからここに高根社が祀られたのか明らかでありませんが、比企郡方面への交通が活発になるのは、山野の開発が盛んとなる平安時代以降と考えられます。この時代以後、小江川の源地名と推定される「大江荘」「小江郷」等の村名が知られ、村々を結ぶ鎌倉街道や枝道が整備されてきます。
旧社地には神他の跡、柱を据えた柱穴が、この旧道から仰ぎ見る尾根上に残っています。場所といい遺跡の内容といい、伝承にある神社跡であることは動かないと思われます。
祭神は、その名前から高根山の名称を採ると思われる「味スキ高彦根命」がいます。鉱業等の生産に係わると共にケガレをたいへん嫌う性格の神とされ、工人達が峠に祀ったと考えることも可能です。
それは道筋に残る石切場跡との関係からですが、嵐山町鎌形には久寿三年(1155)に没した「源義賢」の五輪塔(墓石)があり、この石材が高根山周辺から切り出された可能性があります。峠を通過した物資の中に江南産の石材が含まれていたようです。
中世の江南地域の歴史は、生産・流通の面からも再発見を待っているようです。
池代沼近景写真
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